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ここも、ぼちぼち行きましょ

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ミチオ Part8

ボナベンチャーホテルを後にして、リトル東京へと向かった。

 リトル東京はロサンゼルスダウンタウン東側に位置する北米最大の日本人街で、1886年に数人の日本人がレストランを開いたのがその始まりと言われている。その後、ロスアンゼルスに移り住んだ日本人が集まり、1900年頃には既に2千人以上の日本人が暮らしていたそうで、1934年には世界最大の日系人のお祭り”二世祭”が始まったそうである。
 第二次世界大戦中は、アメリカに住む日系人にとって最も辛い時期で、リトル東京で暮らす日系人も多くが強制キャンプに収容されま。その頃のつらい歴史の一部は、1999年に新館がオープンした全米日系人博館(Japanese American National Museum)で見ることが出来る。
 戦後、リトル東京に戻った人々は、リトル東京の復興を願い、戦時中に中断されていた”二世祭”を再開した。多くの和食レストランや店、日本の銀行や書店、寺院、日本食マーケット、日本語の通じるカメラショップなどがあり、とても便利な街である。また、日本の薬局、病院もある

 斉藤は頼まれていたドジャースのジャンバーをここで見つけ、ラコステのポロシャツとナイキのテニスシューズと共に買った

 昼飯はアメリカへ来てから初めての日本食「とんかつ定食」を食べた、衣が甘く感じたが美味しくて涙がひとつぶ落ちた。




 10分ぐらい歩いたときである。ふと気づくと、とんでもないところへ紛れ込んでいることに・・・
 スラム街である。道路はごみだらけ。黒ずんだ建物ばかり。周りを見渡しても、目つきの悪い黒人しかいない。

 しまった・・・そうはいっても何も出来ない。引き返そうにも、既にかなり奥まで来ている。

 我々は明らかにその場にいるのが不自然な人間で、周りの黒人の視線が我々の方へ向けられている。何かされるのでは・・・そんな恐怖感で・・

 ここで怯えた態度をとったら終わりと思った我々は、平然とした感じで歩き続けるしかないのである。もちろん、周りに注意を払っていて何かあれば走り出すつもりではあるのだが

 結果的には、無事そのエリアを通り抜けて、リトル東京へ辿り着くことが出来たのだが、そのときは汗びっしょり。歩いた時間は10分もなかったのだが、途方もなく長い時間のように感じた。

 無事だったのは、運がよかっただけなのであろう

 アメリカでは道路1本で安全な場所と危険な場所が分かれるということを聞いてはいたものの、それを実感した出来事であった。


 RTDツーリストパスと言うのを買った。、RTD(Southern California Rapid Transit District)バスに乗り放題で一日当たりたったの1ドルと言う便利な定期である。
 ハリウッドへはホテルの前から91番か93番のバスでハリウッドフリーウェイを通って行ける。
 グローマン・チャイニーズシアターは中国風建築物の映画館で前面のコンクリートに二百人もの有名スターのサイン、足型、手形が並んでいる。ユニバーサルスタジオにも言って見たが入場料7ドル75セントであった。映画のセットの中をトラムバスと言うので案内してくれるのだ。

 桜田淳子が歌っていた「来て!来て!サンタモニカ…♪」のサンタモニカにも行って見た、映画「スティング」に出てきた桟橋がある・・・シーフードレストランが並び、釣りをする人、ローラースケートをする人、ひたすらエクササイズをしている人、泳いでいる人、皆、楽しそうだ。

 ローラースケートは1時間1ドル、滑って隣のベニスビーチへと行って見たのだが片道50分も掛かって足が棒になった。
 
 サンタモニカの古着屋がお買い得でお勧めと見ていたので、行って見たのだが、なぜか古着臭くて買うことは出来なかった、近くにあった軍隊の放出品を売っている店は手榴弾の火薬を抜いた奴とか軍靴などが置いてあり、興味深かった。

 明日はいよいよ、ハワイへと出発である。飛行機のリコンファーム(予約の再確認)を済ませて早く寝る事にした、朝四時にはここを出てバスでLAXロスアンゼルス国際空港へ向かう必要があるからだ。





 朝四時15分、ホテルを出て空港行きのバス停へと歩いている、まだ真っ暗である。

 後ろからタッタッタっと走ってくる音が近づいてくる
 案の定、金をせびりに来たのだ

 細かいコインを数枚渡しても無言で手を引っ込めない、仕方が無く一ドル札を1枚出すとニカッっと笑い走り去って行った。心臓が喉まで届いた一瞬であった。

 途中、絵葉書をポストに放り込む・・・日本まで21セントである。

 ロスアンゼルスは広い割りに長距離鉄道以外の鉄道がなく、移動は大変であった。今度来る時はレンタカーを借りないといけないなと思っている内にバスが来て、乗り込んだ。

 二人の住所はおろか連絡先も聞いていなかった事に気がついたがどうすることも出来ない。

 マリファナはフィルムの箱に入れてポケットに入っている、捕まったら諦めよう捨てるのは勿体無いし、ハワイで落ち合う国分や渡部達に吸わせてあげたい気持ちの方が勝っていた。

 ウトウトしている内にホノルルに近づいていた、約5時間の飛行時間であるがハワイとカリフォルニアにも時差があるので3時間で着いた様な気がした。

 国内線での到着なので呆れるほど簡単に到着ロビーへと出てくると渡部が笑顔で待っている。体から一気に緊張が蒸発していった。渡部達はレンタカーを借りて迎えにくれていた、カマロのオープンカーである。日本じゃ恥ずかしくて乗れないがここなら乗れる。

 渡部、国分を含めた四人で5泊7日のツアーで来ているのだ、四泊分ホテルの床をベッドに借りる事にした。ワイキキのダイヤモンドヘッド寄りにある、ハワイアン・リージェントホテルが彼らの宿であった。辺りのABCストアーの数がやけに増えている。

 ハワイアン・リージェントはカラカウア通りからクヒオ通りまで繋がっている大型のホテルで、海に面した25階建てのカラカウアタワーと山側にある33階建てのクヒオタワー合わせて1,346室の客室を有するカピオラニ公園には歩いて2~3分、ホテル内には30程のレストランがある、値段はしっかり高い、回転寿司も一皿1ドル50セントしている。
 1972年に建ったホテルでまだ新しい。
 渡部はあの後も何度か来ているが、国分と伊達、それに梅本の3人は今回が初のハワイである、ホテルへ荷物を置くと、渡部の運転でもう何度か行ったシーライフパーク~でおっさん顔のアザラシを見て、ドール・パイナップルファームへとやってきた。

 ここは、オアフ島の中部、ハレイワの街の手前にある。建物の中はお土産品やドールのオリジナル・グッズなどを売っているが、ここではパイナップル・アイスがお勧めである。ちょっと酸味が強いかなと思うがけっこうイケル。新鮮なパイナップル・ジュースがタダで飲めるコーナーもある。
 裏手には展示用のパイナップル畑があって、いろんな種類のパイナップルが栽培されているのだが、種類の多さには驚いた。

 ふと、“トリスを飲んでハワイへ行こう”と言うCMを思い出す斉藤であった。

 
 

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# by mooksM | 2003-07-09 21:39 | 書き物

ミチオ Part7

 朝、朝6時ごろ、ドアをドンドンと叩く

警察だドアを開けなさい・・・・へ? こっちは窓がちゃんとしまらないわ 空腹だわ
で寝不足である・・・・無視していると、隣の部屋でドッタンバッタン・・・・・・・ 隣に悪い奴がいたようだ。

 今でも良く心臓が止まらなかったと思い出す事柄である。

 サンフランシスコへ2泊して、ロスアンゼルスへと向かう事にした、経路変更したグレイハウンドはまだ使える

 サンフランシスコのバス・ディーポへはかなり治安のよくない場所にあった。

 トイレで用をたしていると、後ろから肩を叩かれ、コーヒー飲みたいから金をくれと傷だらけの黒人に言われ、慌ててポケットに入っていた小銭を渡し、難を逃れたりもした。

 ニューヨークを出てから会った日本人と言えば、一昨日行った観光案内所のおばさんだけであった。しかもおばさんはほとんど日本語を忘れていて外人と変わらなかったのだ。

 ロスアンゼルス行きのバス乗り場と時刻を確認していると、二人の男が近づいてきて

 「日本からですか?」
 「ん?そうだけど・・・」

 二人はアメリカを一人旅している学生で、たまたまここで知り合いロスアンゼルスへ向かう所だと言う、一緒に行かないかと誘われて同じバスでロスアンゼルスへと向かった

 12時間と少しでロスアンゼルスのダウンタウンへと着いた。

 ルンペンの様なのがウロウロとしている、サンフランシスコの比ではない不気味な所である。
 店やアパートの窓には鉄格子がしっかり取り付けられているここがあのロスアンゼルスなのかと唖然とする斉藤であった。

 三人はホテルを探した、「地球の歩き方」に載っていたクラークホテルが一部屋で22ドルと言う設定だが、例の国際学生証が効力を発揮し、二人部屋にエクストラベッドを入れて20ドルとの事、即ここに決定。外観は煤けた感じであまり良くなかったが、室内は寝具や調度品もおしゃれで気に入った。

 まだ、午前中である、近くの立ち食いカフェテリアでトーストとタマゴとコーヒーで遅めの朝食を済ませて、ディズニーランドへ行くことにした、調べてみると今朝着いたバスディーポから902番のバスで行けることがわかった。

 1時間と少し掛って到着する・・広いチケット売り場にてチケットを購入する、軍隊の人はかなり安く購入しているので、驚いた、チケットはA・B・C・D・E券が何枚かずつ一冊に纏まっているもので、Aが高額Eが低額のようだ、ビッグ・サンダー・マウンテンなどはAが必要である、コーヒーカップなどはEで乗る事ができる。男三人でうろうろするのもみっともないので分かれ、夜のパレードの時にシンデレラ城の前に待ち合わせする事にした。

 メルヘンチックな「イッツ・ア・スモールワールド」「パイレーツ・オブ・カリビアン」
 園内を山手線の様に走っている蒸気機関車やマークトウェインの蒸気船、ジャングルクルーズは遠足で行った「横浜ドリームランド」に似ているのがあったので驚いた。

 園内にはあちこちにホウキとチリトリを持っている人がいて、大変綺麗である。スタッフの顔は爽やかな笑顔。これこそがイメージしていたロスアンゼルスそのものであった。

 夜のパレードが始まった、ただただ唖然として見とれるばかりであった。これだけでも
ディニーランドへ来た価値がある。今までに経験の無い大規模なパレードであった。

 帰りは12時を少し過ぎてのバスディーポ到着で、変な連中が夢遊病者の如く歩いている、
走り出したいのを我慢してホテルまでたどり着いた。

 部屋へ戻ってシャワーを浴びる、まだお互いの名前を知らなかった事に気がついたのは、マリファナを吸い始めてからであった、そう斉藤はニューヨークでマリファナを1袋20ドルで買っていたのだ、またシガレットペーパーと言われるタバコを巻く紙もドラッグストアで買っておいたのだ、州によって厳しい所があると聞いていたし、ずっとバスで移動で隠れる場所がなかったのでニューヨークを出てからは吸っていなかったのだ。

 一人は関西弁の土居と言って、大学へ一度入ったのだが辞めて、アメリカ一人旅へ来たという25歳、もう一人は小柄な大学生2年生西田と言い、将来はデザイナーになりたいのだそうだ。

 斉藤は何度か吸っていたのだが、二人は初めてで、小さな携帯ラジオから聞こえてくるジャズがまるでそこにバンドが居て演奏しているようだと、驚いていた。
 「ミュージシャンがマリファナ吸うのってこれだよな~」とつぶやくのであった。

 翌朝、斉藤はボナベンチャーホテルへハワイ経由成田行のチケットを引き取りに行く必要があると言うと二人も付き合うと言うので一緒に行くことにした。

 あっけないほど、簡単にリコンファームは忘れずにと言いながらチケットを渡された。
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# by mooksM | 2003-07-09 21:37 | 書き物

ミチオ Part6

日本を出るときに持ってきた文庫本「青春の門」、もう何度も読んでいるのだが飽きずに読んでいると隣に座った黒人のおばさんが
「あなたは中国人?」
「いいえ」
「あら失礼・・私の娘が学校で中国語を学んでいて、あなたの読んでいる様なのを使っていたので、聞いて見ました」と言う、日本人だと言うと驚いた顔をしていた。

 バスはニューヨークからニュージャージー、フィラデルフィアを通ってピッツバーグである。何年か前、アル・パチーノの「スケア・クロウ」でアル・パチーノが向かうと言っていたのがここであった。

 クリーブランドを通り、シカゴへと着いた。まだロスアンゼルスまでの三分の一であるが、三日経っている。ホテル代を節約する為に、夜は宿泊の代わりにグレイハウンドに乗り移動する事を続けているのである。この後の費用が見えないので食事も一日一食になっていた。
 シカゴはジーン・ハックマンが「フレンチ・コネクション」でポパイ刑事役、鉄道の下を走っているシーンがあったが、ちょうどこんな所だ。東京に似た感じの都会だなと思った。

 バスはオマハへと向かっている、北米のど真ん中、道路意外何もない、何年か前に見たスピルバーグの映画「激突」が巨大ダンプに追いかけられたのもこんな所かもしれない。

 シャイアンへ到着した、地名からも西部へ入ったのであろう、ここでの休憩は1時間15分である。

 ドライバーは何人も替わったし車体も何度か変わった、運転手はプロレスラーの様な人もいれば女性もいたのには驚いた。

 ユタ州はソルトレイクへと着いた。もう、ニューヨークを出て10日目である。読み飽きた文庫と「地球の歩き方」を何度も読んでいる内に、やはりサンフランシスコやグランドキャニオン、ラスベガスへ行きたくなる斉藤であった。持ってきた英和辞典を持ち、どこでどうやって頼めばいいのか・・・45分程悩んだ。

 経路変更(変更及び切符の再発行)をRE-ISSUEと言うことも知らない斉藤は汗びっしょりで、希望通りの経路へと変更する事ができたのであった。

 真夜中にラスベガスに着いた、映画やテレビで見た、スロットマシンが並んでいる、景品のベンツや宝石が陳列してあるのには驚いた。ネオンと言うのか凄い数の電飾だ

 グランドキャニオンを駆け足で見学して、やっとサンフランシスコへ着いた。

 ここでは、ホテルを探して泊まるつもりである、風呂も入りたいし。

 空腹と疲労でふらふらになりながら、ホテルを探す、ケーブルカーの停留所の斜め前のストラッドホテルを狙っていたのだが運良く空いていた1泊22ドルであったが例の国際学生証で15ドルとなった。

 ホテルへチェックインすると真っ先にシャワーを浴びたのだが・・・・水しか出ないし、窓も5センチほど開いたまま閉まらないというシマラナイホテルであった、夏でもサンフランシスコは涼しいと言うか肌寒いのだ。

 半袖と甚兵衛しか持っていないので何か調達する必要がある、ここで思い出したのが映画「卒業」で知ったバークレー、そうカリフォルニア大学バークレー校である。

 サンフランシスコはカリフォルニアとは言うものの最高気温が20度を越すことは滅多に無い、もっとも最低気温も8度以下はない、こじんまりとした所である。有名なケーブルカーでの移動か歩いても何時間も歩く程ではない。

 早速ケーブルカーに乗ってフィッシャーマンズ・ワーフへと行って見ると、普通の港町でお土産屋が並んでいる、ロブスターとか海産物が浜焼きの如く露天で売っているのだが金がない斉藤はクラム・チャウダーと言うスープだかシチューだかわからないが、アサリとジャガイモと様々な物が入っているとても暖かく美味しい物を紙コップで売っている屋台で1杯食べただけであった。
 ケーブルカーも座っている人はいいが、しがみついている方は結構迫力だし、握力も必要である。

 サンフランシスコにはアメリカ最大とも言われる中華街と隣接するジャパンタウンと言われる日本センターがある。
 紀伊国屋書店があったので覗いて見るとたいていの日本の書籍・雑誌はあるのだが3倍~4倍の値段で売っているのには驚いた。

 紀伊国屋を出ると五重塔の方から女の子が歩いてきた、日本人だと思っていると英語で話し掛けていくる。

 アイリーン・アレキサンドラ・イーと言うここで生まれた中国人だと言う、石野真子のフアンであり、「明星」や「平凡」をたまに買っているのだが高くてたまらないから、日本に帰ったら送ってくれないかと言うのが用件であった。

 若いのに・・いや、子供なのに凄いなと思い、約束をすると共にバークレーへ行きたいのだがと訴える斉藤であった。

 この数行に1時間掛かり、しかも英和辞典がフル稼働していたことは言うまでもない。

 バークレーの5文字ですら、わかって貰えるのに四苦八苦したのだ。

 翌朝、アイリーンはホテルの前まで迎えに来てくれて、バークレーまで一緒に行ってくれた。
 まずバートと言うサンフランシスコの地下鉄(Bay Area Rapid Transit)へ乗るのだが、既にプリペイド式かつSFに出てくるような近代的な乗り物であった

 バークレィは全米学生運動の発祥の地で、カリフォルニア大学では最大の希望で3万人の学生を有する。UCLAと言うのはカリフォルニア大学ロスアンゼルス校である。

 バークレー大学へ着くと、真っ先に購買部へ行き防寒の為のトレーナーを買った斉藤であった。
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# by mooksM | 2003-07-06 21:34 | 書き物

ミチオ Part5

日本を出るときに持ってきた文庫本「青春の門」、もう何度も読んでいるのだが飽きずに読んでいると隣に座った黒人のおばさんが
「あなたは中国人?」
「いいえ」
「あら失礼・・私の娘が学校で中国語を学んでいて、あなたの読んでいる様なのを使っていたので、聞いて見ました」と言う、日本人だと言うと驚いた顔をしていた。

 バスはニューヨークからニュージャージー、フィラデルフィアを通ってピッツバーグである。何年か前、アル・パチーノの「スケア・クロウ」でアル・パチーノが向かうと言っていたのがここであった。

 クリーブランドを通り、シカゴへと着いた。まだロスアンゼルスまでの三分の一であるが、三日経っている。ホテル代を節約する為に、夜は宿泊の代わりにグレイハウンドに乗り移動する事を続けているのである。この後の費用が見えないので食事も一日一食になっていた。
 シカゴはジーン・ハックマンが「フレンチ・コネクション」でポパイ刑事役、鉄道の下を走っているシーンがあったが、ちょうどこんな所だ。東京に似た感じの都会だなと思った。

 バスはオマハへと向かっている、北米のど真ん中、道路意外何もない、何年か前に見たスピルバーグの映画「激突」が巨大ダンプに追いかけられたのもこんな所かもしれない。

 シャイアンへ到着した、地名からも西部へ入ったのであろう、ここでの休憩は1時間15分である。

 ドライバーは何人も替わったし車体も何度か変わった、運転手はプロレスラーの様な人もいれば女性もいたのには驚いた。

 ユタ州はソルトレイクへと着いた。もう、ニューヨークを出て10日目である。読み飽きた文庫と「地球の歩き方」を何度も読んでいる内に、やはりサンフランシスコやグランドキャニオン、ラスベガスへ行きたくなる斉藤であった。持ってきた英和辞典を持ち、どこでどうやって頼めばいいのか・・・45分程悩んだ。

 経路変更(変更及び切符の再発行)をRE-ISSUEと言うことも知らない斉藤は汗びっしょりで、希望通りの経路へと変更する事ができたのであった。

 真夜中にラスベガスに着いた、映画やテレビで見た、スロットマシンが並んでいる、景品のベンツや宝石が陳列してあるのには驚いた。ネオンと言うのか凄い数の電飾だ

 グランドキャニオンを駆け足で見学して、やっとサンフランシスコへ着いた。

 ここでは、ホテルを探して泊まるつもりである、風呂も入りたいし。

 空腹と疲労でふらふらになりながら、ホテルを探す、ケーブルカーの停留所の斜め前のストラッドホテルを狙っていたのだが運良く空いていた1泊22ドルであったが例の国際学生証で15ドルとなった。

 ホテルへチェックインすると真っ先にシャワーを浴びたのだが・・・・水しか出ないし、窓も5センチほど開いたまま閉まらないというシマラナイホテルであった、夏でもサンフランシスコは涼しいと言うか肌寒いのだ。

 半袖と甚兵衛しか持っていないので何か調達する必要がある、ここで思い出したのが映画「卒業」で知ったバークレー、そうカリフォルニア大学バークレー校である。

 サンフランシスコはカリフォルニアとは言うものの最高気温が20度を越すことは滅多に無い、もっとも最低気温も8度以下はない、こじんまりとした所である。有名なケーブルカーでの移動か歩いても何時間も歩く程ではない。

 早速ケーブルカーに乗ってフィッシャーマンズ・ワーフへと行って見ると、普通の港町でお土産屋が並んでいる、ロブスターとか海産物が浜焼きの如く露天で売っているのだが金がない斉藤はクラム・チャウダーと言うスープだかシチューだかわからないが、アサリとジャガイモと様々な物が入っているとても暖かく美味しい物を紙コップで売っている屋台で1杯食べただけであった。
 ケーブルカーも座っている人はいいが、しがみついている方は結構迫力だし、握力も必要である。

 サンフランシスコにはアメリカ最大とも言われる中華街と隣接するジャパンタウンと言われる日本センターがある。
 紀伊国屋書店があったので覗いて見るとたいていの日本の書籍・雑誌はあるのだが3倍~4倍の値段で売っているのには驚いた。

 紀伊国屋を出ると五重塔の方から女の子が歩いてきた、日本人だと思っていると英語で話し掛けていくる。

 アイリーン・アレキサンドラ・イーと言うここで生まれた中国人だと言う、石野真子のフアンであり、「明星」や「平凡」をたまに買っているのだが高くてたまらないから、日本に帰ったら送ってくれないかと言うのが用件であった。

 若いのに・・いや、子供なのに凄いなと思い、約束をすると共にバークレーへ行きたいのだがと訴える斉藤であった。

 この数行に1時間掛かり、しかも英和辞典がフル稼働していたことは言うまでもない。

 バークレーの5文字ですら、わかって貰えるのに四苦八苦したのだ。

 翌朝、アイリーンはホテルの前まで迎えに来てくれて、バークレーまで一緒に行ってくれた。
 まずバートと言うサンフランシスコの地下鉄(Bay Area Rapid Transit)へ乗るのだが、既にプリペイド式かつSFに出てくるような近代的な乗り物であった

 バークレィは全米学生運動の発祥の地で、カリフォルニア大学では最大の希望で3万人の学生を有する。UCLAと言うのはカリフォルニア大学ロスアンゼルス校である。

 バークレー大学へ着くと、真っ先に購買部へ行き防寒の為のトレーナーを買った斉藤であった。



 朝、朝6時ごろ、ドアをドンドンと叩く

警察だドアを開けなさい・・・・へ? こっちは窓がちゃんとしまらないわ 空腹だわ
で寝不足である・・・・無視していると、隣の部屋でドッタンバッタン・・・・・・・ 隣に悪い奴がいたようだ。

 今でも良く心臓が止まらなかったと思い出す事柄である。

 サンフランシスコへ2泊して、ロスアンゼルスへと向かう事にした、経路変更したグレイハウンドはまだ使える

 サンフランシスコのバス・ディーポへはかなり治安のよくない場所にあった。

 トイレで用をたしていると、後ろから肩を叩かれ、コーヒー飲みたいから金をくれと傷だらけの黒人に言われ、慌ててポケットに入っていた小銭を渡し、難を逃れたりもした。

 ニューヨークを出てから会った日本人と言えば、一昨日行った観光案内所のおばさんだけであった。しかもおばさんはほとんど日本語を忘れていて外人と変わらなかったのだ。

 ロスアンゼルス行きのバス乗り場と時刻を確認していると、二人の男が近づいてきて

 「日本からですか?」
 「ん?そうだけど・・・」

 二人はアメリカを一人旅している学生で、たまたまここで知り合いロスアンゼルスへ向かう所だと言う、一緒に行かないかと誘われて同じバスでロスアンゼルスへと向かった

 12時間と少しでロスアンゼルスのダウンタウンへと着いた。

 ルンペンの様なのがウロウロとしている、サンフランシスコの比ではない不気味な所である。
 店やアパートの窓には鉄格子がしっかり取り付けられているここがあのロスアンゼルスなのかと唖然とする斉藤であった。
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# by mooksM | 2003-07-05 21:28 | 書き物

ミチオ Part4

国際学生証(ISIC International Student Identity Card)を作っておいた方が身分証明にもなるし、いろいろ得点があると聞いたので作ったりしている間に出発の7
月15日になってしまった。

 いよいよ、出発である。荷物はスポーツバッグ一つにわずかな下着とジーンズ、それに売れるかもしれないので甚兵衛、Tシャツにポロシャツ、洗面用具、友達から餞別で貰った洗濯セット、これにパスポート、航空券、トラベラーズチェックに国際免許と現金という実に身軽であった。

 ひとり成田空港へ向かい、コリアン航空のカウンターで搭乗手続きをし機上の人となった。
 機内は漢字七割ハングル文字三割、機内放送も東北弁交じりの様に聞こえる韓国語と英語で日本語はどこにもないのだ。

 搭乗直後の緊急時の説明のなかの酸素マスクの説明でも “サンゾマズク” と聞こえ
たし○△■ニダとか

・・・・ようはまったくわからないのだが、なんとなく可笑しかった。

 スチュワーデスも日本人の顔なのに日本語がしゃべれないと言う不思議な感じがした。
日本人に比べて唇が厚い様な気がするが美人揃いである。

 ソウルの金浦国際空港迄は2時間と少しで到着したが1時半待つのだ。

 トランジット(途中寄航)である。トランジットでは燃料や食料の補給のためにいったん着陸するが、再び同じ飛行機で目的地に向け出発することである。

 似ていて間違えやすいのが、トランスファーで、こちらは途中で飛行機を乗り換える。
トランジットの寄航時間は大体30分~一時間。乗客は機内で待つ場合と空港のトランジット
ルームを利用する場合がある。機外に出るときには、機内清掃が入るので足下やシートポケットにある荷物はすべて頭上の荷物入れに入れる必要がある。

 また、パスポート・財布などの貴重品は必ず所持して機外へ出ること。さらに、空港の係員から渡されるトランジット客用のカードをなくさないように気を付けたい。

 トランスファーでは、場合によっては乗り換え地での空港やターミナル間の移動や現地で新しい搭乗券を得る必要があるので、出発地で搭乗券をもらったときに確認すること。

 安いチケットはこんなもんです…… 

 羽田や成田と違って兵隊が機関銃を持ってあちらこちらに立っているのは不気味だったが、日本人もそうだが軍服が似合わないので迫力はなかった。

 ソウルを出るとアンカレッジ空港へ向かうのだが、うとうとすると食事が出てくる、うとうとすると軽食が…気がつくと片付けられている・・熟睡したい欲求でつらかった。

 およそ11時間でアンカレッジへ到着した。到着直前の空からは岩山や渓流そして鹿や熊も見ることが出来て驚いた。

 アンカレッジ空港での乗り継ぎ時間はなんと4時間。でも入国審査が念入りなのと、国際線ターミナルが国内線ターミナルとシャトルバスで移動の距離なので、意外にのんびりしている時間がない。

 目についた「スタンドうどん」をかっこむように食べた。

 味は・・・・・・忘れた。

 アンカレッジのと日本との時差は日本時間マイナス18時間である。アンカレッジは人口二十六万九千人、面積5,063.44平方キロ、東京からの5,568km、シアトルから2,325km、ロンドンから7,221km、シカゴから4,569kmである。アラスカ最大の都市アンカレジは、西に探検家キャプテン・クックが1778年に錨を下ろしたクック湾を望み、東には白嶺のチュガッチ山脈が聳えている。

 アンカレジを中心とする中南アラスカは内陸性気候と海洋性気候の中間にあり、太平洋の黒潮が南を流れ、アラスカ山脈が北部にそびえて北風を防いでいるので、気候は比較的温暖で、しかも乾燥した爽やかさ。

 夏期の気温は摂氏10~21度、冬期は摂氏マイナス14.4~マイナス6.7度となる。年間平均降雨量は15.9インチで降雪量69インチ(1.75メートル)を含み、十月から四月頃まで降雪のシーズンである。
 日照時間は最長19時間21分、最短5時間28分で、東京と比べるとアンカレジの方が年間
平均1日当たり1時間30分も昼間が長い。

 再び搭乗しニューヨークへと向かう、ニューヨークには今向かっているJFK(John F.
Kennedy)空港の他、ラガーディア空港もある。

 飛行機の遅れもあって到着は午後十一:四十分、田中に出した手紙は着いているのだろうか、
 そして彼は迎えに来ているのだろうか

…住所はわかっていても、右も左もわからないのだ、

 不安で胃が痛くなってきた。



 不安におののき到着ロビーに出た斉藤はキョロキョロと田中を探している。

 かなり暑い

 深夜の割りに人が結構居る、黒人がやけに多い、余りキョロキョロするのは良くないと
言われた事を思い出しさりげなく歩いていると黒人が五~六人寄って来て

 「Hey man! ァ~d( ´O)η△ ファ~sdsajsdfadfafa!!!」

 何を言っているのか、まったくわからないのだが、グループではなさそうだと思っていると一人が腕を掴んで来たのだ。

 すると別の一人が腕を掴んでいる男を殴りつけたのだ、心臓はバコバコ状態、
 
 なんだかわからないので困っていると

 「お~~い、どうした」の声が

 振り向くとそこには、田中の姿があったのだ、黒人達はタクシーの運転手で客の取り合いをしていたのであった。

 田中がなにやら話していて、その中の一人のタクシーに乗ってから教えてくれたのであった。

 タクシーは映画で見た通りの黄色でまさにイエローキャブである。運転手の座る前列との仕切りは防弾ガラスであろうか分厚いガラスがあり、料金を払う小さな小窓がついていた。

 「いやぁ~お久しぶり!」

 ほっとして5ヶ月ぶりの再会の挨拶となったのは午前0時を回っていた。

 田中が住むアパート迄は空港から20分程で着いた。メインストリートから一本入ったジャマイカ通りと言うおしゃれな通りに面した7階建ての日本風に言えばマンションの3階であった。
 建物に入るのも鍵が必要で、部屋の玄関の鍵はなんと五個も付いているので驚いていると「面倒くさいから今日は2個しか掛けてないんだ 実はハハハ」

 部屋は一部屋一部屋がたっぷり広い3LDKと言った作りで風呂とトイレは2個ある、ここに日本人4人の留学生で共同で借りて生活しているのだそうだ。

 「具志堅さんがちょうど住み込みの仕事でロングビーチへ行っているから寝場所は具志堅さんの場所を使って良い事になってるから大丈夫!」との事である。
 この具志堅も例の空港のアルバイト仲間の一人で小型ヨットを持っているので良くヨットで遊んだ仲間で急遽一緒にニューヨークへ来たのだそうだ。

 あと二人の同居人は斉藤より少し年長の様で、森里さんと言う栃木訛りの人と、神経質そうな中沢さんと言う人懐こいユニークな人たちであった。

 4人は斉藤が免税店で買ってきたサントリーオールドとビーフジャーキーで深夜の乾杯をしたのであった。

 ニューヨークを簡単に紹介すると、マンハッタン、自由の女神、ブロードウェイ、キングコングが登ったエンパイヤステートビル、三年前に建ったワールドトレードセンター
(2001/09/11の同時多発テロで崩落してしまったが・・)が有名だが、アメリカ最初の首都でもあるのだ。フェデラルホールのバルコニーで初代大統領ワシントンが宣誓したのである。
 ニューヨークが19世紀に世界貿易の中心となることが出来たのは、ニューヨークから五大湖に抜けるエリー運河が1820年代に完成し、アメリカ中西部とのヨーロッパを結ぶ交通の要衝となったためである。

 1845年7月28日アメリカ陸軍航空隊の爆撃機B25が、エンパイアステートビルの79階に激突した。原因は、着陸準備をしていたB25が、霧で視界が悪い中で高度を下げ過ぎことによるもの幸いにもビルは倒壊しなかったと言う記録もある。

 ニューヨーク・ヤンキースが誕生したのは1913年で、大リーグ全体の歴史(1871年誕生)に比べると、そこまで「老舗」ではない。1903年~1912年まではニューヨーク・ハイランダーズ(Highlanders)というチーム名だった。その前身はボルチモア・オリオールズ(1901年~1902年)。現在の「ボルチモア・オリオールズ」と名前は同じだが直接の関係はない。

 ニューヨーク州には2つのメジャーリーグ球団(ヤンキースとメッツ)があるが、過去にはブルックリン・ドジャーズ、バッファロー・バイソンズ、ロチェスター・ホップビッターズ、シラキュース・スターズ、トロイ・ヘイメーカーズといったメジャーリーグの球団が存在した。ただし、ブルックリン・ドジャーズ(現ロサンゼルス・ドジャーズ)とニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)を除き、いずれも19世紀に数年で消えた球団である。
 有名な地下鉄の全長は722マイル(約1160km)

 歴代大統領のうち、4人がニューヨーク州の出身。

第8代バン・ビューレン(1837-1841年)
第13代フィルモア(1851-1853年)
第26代セオドア・ルーズベルト(1801年-1809年)
第32代フランクリン・ルーズベルト(1933-1945年)

 なお、2人のルーズベルト大統領、苗字は同じだが親戚というわけではないので念のため。

 ニューヨーク生まれの有名人は非常に多いが、例えば以下の有名人がニューヨーク市内の出身である。

ハンフリー・ボガート(Humphrey Bogart:俳優)
マリア・カラス(Maria Callas:ソプラノ歌手)
サミー・デービス・ジュニア(Sammy Davis Jr.:歌手)
ジョージ・ガーシュウィン(George Gershwin:作曲家)
マイケル・ジョーダン(Michael Jeffery Jordan)
ジョン・ロックフェラー(John D. Rockefeller:石油王)
ノーマン・ロックウェル(Norman Rockwell:画家、イラストレーター)
 
 ニューヨーク州の出身の有名人としては、
トム・クルーズ(Tom Cruise:俳優=シラキュース)
ジョージ・イーストマン(George Eastman:コダック社創業者=ウォータービル)
ビリー・ジョエル(Billy Joel:歌手=ヒックスビル)がいる。 

 ニューヨーク・マンハッタンにあるファッション工科大学(The Fashion Institute of
Technology)は、世界で唯一、化粧品と芳香剤のマーケティング専攻で学位が取れる大学である。
 ニューヨークの愛称であるビッグアップル(The Big Apple)は、ミュージシャンによる造語で、もともと「楽しい時を過ごすこと」の意味である。

 ニューヨーク州(ニューヨーク市ではない)では実は酪農が盛んで、州内に一万八千の牛の牧場がある。アメリカ最初の牧場は、1747年にロングアイランドではじまったそうである。

 全長641マイル(約1030km)の Governor Thomas E. Dewey Thruwayは、全米最長の有料道路。ニューヨーク州は、自動車ナンバープレートの使用を義務付けた最初の州だそうである。


 朝、起きると田中が、学校へ手続きでちょこっと行った後、バイトの時間まで市内を案内してくれると言う。

 田中が作ってくれた、肉じゃがと“サッポロイチバンソイソース味”で朝食を済ませて外へ出た。

 彼は、「クィーンズ・カレッジ」と言う学校へ通っているのだ、アパートから出ると昨晩と違って明るいので景色も全然違うのに驚いた、昼間見た方がアパートも町並みも綺麗でおしゃれである。

 バーガーキングの角を曲ってドラッグストア、ピザ屋を通り過ぎた所にあるバス停から七~八分で学校へ到着した。ゴルフ場のクラブハウスの様な三角屋根の建物へと向かう、学生会館とも言うのか、学生ビザの手続きとか就職課の様な相談窓口や事務処理を行っている場所であった。

 15分ほどで田中の手続きが終わったのだが、その間、学生たちを見ていると、ハワイ大学
の学生達と比べて年が上でかつ服装も都会的というか、大人っぽい人々が多かった。

 大学を出るとまたバスに10分程乗り、地下鉄の駅へ着いた。地下鉄に乗るにはトークンと言うコインを自動改札口へ挿入するのだが、どこまで乗っても一回一枚でOK、このトークンはバスにも共通で使うことが出来一枚60セントと便利かつ安いのだが、なぜかトークンは対人販売のみで自動販売機は無い。

 最初に案内してくれたのは、アメリカ独立百周年と友好を記念してフランスから贈られたと言う自由の女神(Statue of Liberty)である。リバティアイランドと言う島にあるので、フェリーで渡るのだ、フェリー乗船の順番待ちなのだが暑い、頭がクラクラするほど暑い、
 デジタル時計が時刻と温度を表示しているのを見ると104度と表示している、

 42℃を超えているのだ、暑い訳である。

 バッテリーパークからフェリーで約15分、リバティアイランドへ到着した。自由の女神、
左手には1776年7月4日と日付の入った独立宣言書を抱え、右手には高々とトーチを掲げている。近くで足元を見ると、足を繋がれていた鎖をちぎって歩き出したところなのがわかると思うが、左足はすでに一歩踏み出し、右足は鎖をちぎるために力が入っているのである。全身のポーズを見ると、お腹に力を入れてちょっと身体をよじっているのがわかるかもしれない。
 像の中には鎌倉の大仏の如く入ることが出来る、ここの場合はエレベーターがあり、階段を昇れば冠の所まで行ける。エレベーターを待つ長い行列が出来ていたので断念したのだが、実は冠まで登る階段は狭くてけわしくてかなりキツイのだそうだ。

 フェリーはバッテリー・パークから自由の女神のリバティー・アイランドとエリス・アイランドに停まり、元の公園に戻る。エリスアイランドでも降りてみたのだが、ここは移民を受入れる移民局があった島で、小さな島の真ん中に移民博物館があり、移民の歴史を物語る品々の展示や、時代別国別移民の推移を示す立体グラフがあるのである。

 遠い昔、ここで移民者は入国審査を受け、晴れて「アメリカ人」となったのである。自由の女神は、こうした移民たちをずっと見守り続け、自由の女神を訪れる観光客は、年間三百万人を数えると言う事だが、移民を祖先に持つ多くのアメリカ人にとっては、ここは単なる観光名所ではなく、自分のルーツを感じることができる特別な場所であるにちがいない。

 自由の女神の後は、ウォール街を見て、三年ほど前に出来たと言う世界貿易センターに行った。

 デカイ… エレベーターで一分で屋上へと着いてしまうのには驚いた、高さ417m、110階建てをたったの一分である。日系人が設計したそうである、ワールドトレードセンターというのは超高層ツインタワービルと4つの低層棟を総称して言い、5万人が働き、1日20万人の出入りがあるといわれる。外壁によって建物を支える構造の為、柱がないのだそうだ。
 屋上展望デッキへ出ようとしたその時、サイレンの様な音が鳴り始めた
 …残念ながら強風の為、デッキへ出ることが禁止となったのであった。

 次に行ったのはエンパイヤステートビルで、なんと40年以上も前の1931年(昭和六年)に建てられた高さ381m、102階建てのビルである。ワールドトレードセンターが出来る迄は、世界最高の高さを誇るビルであった。

 5thアヴェニュー(五番街)、ロックフェラー・センター、セント・パトリック大聖堂、ワシントン広場、セントラル・パーク、ティファニーや、カルチェなどの高級店が立ち並ぶ繁華な所は、59thから42ndストリートにかけてだが、興味なく無視しながら進む、 42ndでは、新宿の歌舞伎町の様な怪しげな一体がちらりと見えた。
覗き部屋、XXXX映画館、25セント映画・・・

 狭い大都会ニューヨーク(マンハッタン)で実に広大な場所を取っているのがセントラルバークと言う巨大な公園で総面積843エーカー(約340万平方メートル)もある。

 馬に乗った兵隊がいるので驚いたのだが、何と警官だと聞き、さらに驚いた。

 浅草の人力車の様なものであろうか馬車も走っている。

 この近くのアパートにジョンレノンが住んでいるとのことである。

 田中はバイトの時間だと言うので店まで一緒に行くことにした。

 ビックリカメラと言う日本にもあるカメラ店の現像焼付けの受付の仕事であった。
 この他にもオシボリの配達も平行してやっているのだと言う、なんで二つもやるのか聞いたところ、不法就労ギリギリと言うか曖昧で、就労に困っているメキシカンやプエルトリカン達の密告でクビになる事があるので、その保険だと言う

 田中のもう一つのバイトであるオシボリの配達とは、なんと、あのワイキキで入った事がある「紅花」の各支店への配達であった、二日間ほど代理で配達をさせて貰った

 夜になると田中のお姉さんが挨拶に現れた、お姉さんが挨拶だけで帰ると入れ違いに旦那
さんと旦那の友達の平林さんという人と二人が来た。

「今晩のヤンキース戦の切符あるけど、だれか行かない?」と平林さんが言う
「斉藤さん、せっかくだから連れてって貰いなよ」と言う事で急遽、平林さんが野球へ連れて行ってくれること事になったのだ。

 平林さんのアウディでヤンキースタジアムへと向かっている。かなり恐そうな雰囲気の場所だ、ブロンクスと言う犯罪多発地帯だと言う。

 平林さんは七歳年長でコリアン航空貨物部のJFK空港勤務だと言う、田中のお姉さんは何と日本エアラインのスチュワーデスで旦那さんは平林さんと同じコリアン航空の営業勤務との事であった。

 また、平林さんが斉藤と同じ池上の出身で斉藤が良く行っていたパン屋さんのお姉さんと昔つきあっていたと言うから、世間は狭いものである。

 ヤンキースタジアムのネット裏3階の良い席だった、ミルウォーキー・ブリュワーズとの対戦である、観客の盛り上がりが凄い、歓声で球場が揺れるているように感じるほどだ。
ホットドッグにビールを呑みながら見ていると後ろで3人ぐらいがタバコを吸っているのに気がついたのだが、何か匂いが普通ではないなと思っていると

 「あれね、マリファナ あ~やって普通に結構すってるんだよ、ここニューヨーク」
 「へぇ~!?法律で禁止されているのでは?」
「どうなのかな~ 結構堂々とすってるしな~ あんな感じでネ」


 アパートの鍵の束を預かった斉藤は、地下鉄には乗れるようになったので、あちらこちらと行って見た。地下鉄は新しい車両はプラスチックの座席で綺麗だが、薄汚い車両もあった。電気の具合が悪いのか、時々室内灯が消えたりもしていた
Aトレインに乗る。このAトレインは、例のデュークエリントンの歌"Take the A train(A列車に乗ろう)"に出てくるハーレム行きの地下鉄である。降りそこなって怖い地域まで行ってしまって慌てて逆方向へ乗り換えたりもした。

 フォレスト・ヒルには二日連続して行き、「Dressed to kill」や「Blues Brothers」と言う映画を見たのだが、この時取っておいた国際学生証のお陰で割引料金で見る事が出来た。

 Blues Brothersでは、ジェームス・ブラウン(James Brown) は何を歌っているのか、全然わからないけど凄い迫力。教会でのダンスも凄い。キャリー・フィッシャー(Carrie Fisher) もスターウォーズのお姫様も良いのだが、この映画の役も良いかも。完全なストーカーですが。
 カー・アクションも最高に凄い。特にショッピングモールの中でのパトカーとのチェイスは迫力である。車どうしでなく、人間がたくさんというところがすごい(撮影時何人怪我したのか・・・)。
 最初から最後までネオ・ナチを馬鹿にしまくっているところも魅力であった。アメリカでカントリーをギャグにするというのは、日本で演歌をそうする感じののか?カントリーの歌手は何も悪いことをしていないのにひどいめに会ったりもする。

 この時歌っていた「ローハイドー」も妙に懐かしかった。

 ニューヨークと言えばジャズだろう、と言う事で老舗のビレッジ・バンガードへ行く事になった。

 日野皓正(ひのてるまさ)も先日出演したそうだ、入場料6ドルの他、ドリンクを1品頼む必要があるのだが、それも2ドル50セント程度なので安いものだ。夜十時からの開始と始まりが遅いので帰りが不安ではあるが。

 演奏者も斉藤は知らないカルテットであったが、有名なグループらしい、つぶやく声すら聞こえる程の距離で、ダイキリを飲みながら、やや興奮気味に聞いた。

 そろそろ、ロスアンゼルスまでどうやって行くかを考えなければならない、JTBへ行ったり『地球の歩き方』を読んだりして考えていた。

 悩んだ挙句安上がりの道を選んだ、何しろお金がないのである、クレジットカードなんて物持ってないし、トラベラーズチェックと現金少し・・・・で、グレイハウンドとしたのであった。
 97ドル15セントでロスアンゼルスまで行けるのだ、途中は何度でも下車可能だ、但し最短距離と言うルールはあるが、そんな事は言っている場合ではない。普通に買うとニューヨークからシカゴでも80ドル10セントなのだ。

 グレイハウンドのバス・ディーポへ田中が見送りに来てくれた。ポートオウソリティ・バスディーポと言う所である。バス停が50程あるバスターミナルの様な所で空港の様に旅行姿の人で溢れている。

 いよいよ、出発である、ニューヨークを去るのもそうだが、前途が不安でしょうがない、と思っている内にグレイハウンドのバスはニュージャージーへと入っていた。

 ニューヨーク出発から一時間も経っていないのに、閑静な住宅街、アメリカってのは広いんだなと、改めて思い直す斉藤であった。


 ニューヨークは大都会で緊張の連続でかなり疲れた、バスに乗ると泥酔者の様に眠った。

 未だに英語が良く聞き取れないので、休憩で止まった時にいつ戻ったら良いかわからないので何人かを目に焼き付けておく必要があった、一人や二人でそこで降りて二度と乗らない場合があるからである。

 高校、大学と英語の成績だけは良かっただけに自信喪失で落ち込む斉藤であった。

 バスは最後列三列だけは喫煙可能であるが、犯罪発生率が高いと聞いているので真ん中辺りへ座るのだが、タバコを吸いたい欲求は襲ってくる、吸うと10秒もしない内に回りからクレームの嵐である、謝るのはいけないと聞いていたので「オッケ~」とだけ言う斉藤であった。
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# by mooksM | 2003-07-04 21:26 | 書き物

ミチオ Part3-2

あの初めてのアルバイトから夏は7月~9月の6週間、春は2月~4月の6週間をこの空港のアルバイトをやっていて、今回は6回目、ベテランであるし、顔も利く様になっていた。おかげで1週間に1回の休日も特別に日曜日にしてくれたのである。
  と言うのも去年から平日の夕方5:00~11:00迄USOツールと言う如何にも外資系の様な準国産会社であり、歯医者でギィ~と歯を削る工具を作っている会社のアルバイトもやっているので、日曜は休まないと自由な時間が全く無くなるのである。

 今回は手荷物課の長尺物のアルバイトである。長尺物とは、カウンターで預かった機内預入れ荷物の内、貴重品で、壊れ物もしくは長いのでベルトコンベアで流すことが出来ない物をカウンターから仕分場迄運ぶのが仕事であり、お金を貰うのが申し訳ないほど楽で、しかも芸能人の化粧バックやギターとかそういった物を運ぶだけが仕事なのである。

 たまに、競輪選手の自転車や楽団の楽器と言う重くて大変な荷物を扱う事もあるのだが。
1日に5~6組の芸能人を見ることは珍しく無い面白い職種である。
 
 但し、シフトに一人なので、休日以外に休むことや遅刻は許されないのである。もし、遅刻や欠勤があると誰かがその分をカバーする必要があるからである。

 早番は朝7時から午後3時までなのだが、今回は超早番と言うのでやって欲しいとの事である。
 条件を聞いてみると、朝は交通機関を利用出来ないのでタクシーでの出社を認める、但し領収書の実費、朝9時迄の2.5時間を通常の1.4倍出すと言うではないか、さらに終業時間は午後2時30分。思わずニヤリとしそうになるのを我慢して承知した斉藤道夫であった。
 そもそも、原付ミニバイクで通っているし、夕方のアルバイト迄の時間に余裕が出来仮眠を取れるのでおいしい話であった、タクシーも領収証をなんとかすればよい訳だ。タクシー代は1回約千三百円である。友人の親戚がタクシー運転手で白紙領収証は簡単に入手できた。
 だいぶしたたかになって来ていた斉藤なので、バレルと不味い領収書の筆跡、タクシー車体番号に偏りがあることの理論武装、バイク通勤を見つからない様にする為にモノレール一駅手前に駐輪すると言った迷彩をほどこしたのであった。
 この頃の稼ぎは夏と春の昼夜重なった時は凄いものだった。
 夜のバイトも5:00~7:00が既に残業扱いで通常時給の1.25倍、7:00~9:00が1.35倍、9:00~11:00が1.4倍、さらに夕食きであったから40万円を超える事もあった。

 ひとつ困ったことがあった、それは銭湯が十一時で終わってしまうことであった。

 空港には風呂があり、仕事の後、入れるし入っていたのだが汗もかくし、夜のバイトは切削油や切削水を使って研磨機での作業なので、蒸気の様に頭や皮膚にうっすら灰色にこびりつくのである。

 手洗い場の湯沸かし器で洗ったりして凌いでいたものである。

 朝5時15分に起きて空港へ行き、3時45分に帰宅し仮眠4時45夜のバイトへ出発十一時15分帰宅と同時に爆睡と言う今では考えられないハードスケジュールである。
 おかげでこの時期の流行歌はわかるが流行ったドラマは一切わからないのが悔しい。

 ある日のこと、田中と喋っていると今年の夏から念願のニューヨークへ2年間留学だと言う、お姉さん夫婦もニューヨークに住んでいるので義理の兄貴の車アウディも安く譲って貰えるのだそうだ。

 「だからさ、ニューヨーク遊びに来てくださいよ斉藤さん!!」
 「え…?今年・・?」
 「そう、だって来年は社会人ですよね・・!?」と田中

 自分が今年4年生になり、来年は社会人になる事などまったく考えていなかったのだ。

 「そうか… じゃ行くかな」

 あれからパスポートのスタンプは何個か増えているのだが、すべてハワイ、しかもオアフ島だけしか海外へ行っていなかったのだ。

 岡田さんや武繁達は相変わらずバリ島やらシンガポールやらソ連やらと行っていたし、
年上のオカダさんはこの時点で英語の先生になっていた。

 小相田はオーストラリアへワーキングホリデーとか言うので行く言うのを聞いていたから、どこか行きたいという下地は漠然とあったのだ。

 ワーキング・ホリデー制度とは、二国間の協定に基づいて、異なった文化の中で休暇を楽しみながら、その間の滞在資金を補うために付随的に就労することを認める特別制度で、両国の青少年を長期にわたって相互に受け入れることによって広い国際的視野をもった青少年を育成し、ひいては両国間の相互理解、友好関係を促進することを目的としているのである。

 この時点でオアフ島以外のアメリカの主要な都市がどこにあるのか、どれ程の費用と日数が掛かるのかまったくわからなかったのだから呆れたものである。

 行くと決めてからは「地球の歩き方」を購入し、どうやって行くか考えるのだがどうもピンと来ないのであった。

 武繁を誘ってみたがロスアンゼルスへは行きたくて、悩むところだがもう一度バリ島へ行きたいと言う、後はアメリカへ行くような人間はいない

 しかたない・・一人で行くか 
 「地球の歩き方」を読んでみて愕然とした

 広い・・広すぎる、

 これは的を絞らないと計画は立てられないと思った。

 昼間のバイト仲間たち、夜のバイトにも一人工藤と言うのがいる、それと高校時代の仲間、これらの仲間とイロイロ喋りながら構想を練り上げていった。
 きっかけでもあり宿の確保の要らない、ニューヨークは当然外せないのでここは決定。

 工藤はまだロスアンゼルスへ行くとも決めてない内に無責任にもドジャースのスタジアムジャンバーを買って来てくれという、

 そうこうする内に春のバイトは終了して、田中はニューヨークへと出発していた。
 高校時代の友人たちが4人が8月の後半にワイキキ5泊7日で行くのでこれに合流しろと言う

 そして、旅行会社を紹介してもらう事になった。

 国分の中学時代の友人の堂本と言うのが「地中海倶楽部港トラベルサービス」と言う旅行社に勤めていたのであった。 さっそく、旅行社を尋ねて
「ニューヨークとロスアンゼルスとワイキキの3カ所を安く行きたいので、なんとかして」と頼むと、しばらく裏へ引っ込んだ後、
「安いとなるとコリアン航空だね、で、こういう感じなんだけどどうかな?」
 内訳は、往路が成田→ソウル(2時間待ち)→アンカレッジ(2時間待ち)→ニューヨーク(JFK空港)
 復路はロスアンゼルス→ホノルル→成田これで20万円ぴったりだと言う。

「ふぅ~~ん」
「このニューヨークとロスアンゼルスってかなり離れていないっけ?」
「北海道と沖縄より遠いかな~~」と堂本

「え・・? この区間どうするの?」
「それを何とかするから安い訳、アメリカの国内線は安いし、予約何て無くてもすぐ乗ること出来るしネ」

「…」

 「それとロスアンゼルス以降の復路の切符はロスアンゼルスのボナベンチャーホテルでの引き取りとなるから、所定の日までに引き取る必要があるから要注意ネ!」

「ホノルルへ着けば国分たちと合流でしょ、そしたらホテルただじゃん」
「あ・・そっか」

 なんかだまされた様に納得して航空券を買ってしまった。

 大平正芳が急死し、内閣総辞職でばたばたした6月も終り、7月に入った。

 ニューヨークに着いた田中からは無事の到着と住所を知らせる手紙が着いていた。
 
ニューヨークのクイーンズ区ジャマイカ通り439番F318が住所である。

 返信で、飛行機の到着日と便名を連絡した。

七月十五日成田初14:20ソウル-アンカレッジ-ニューヨーク(JFK)には同日22:50着

 出発一週間前になっても田中からの返信は帰ってこない、着いたのだろうか不安である。
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# by mooksM | 2003-07-03 21:24 | 書き物

ミチオ Part2-2

車を停めて4人が入っていたのは『Giobanna Theater』と言う映画館の様なところだった。
 客は4人だけ…モザイクの入っていない映画を目を丸くして見ていると今度は黒人と白人の男女が出てきて、いきなりストリップを始めたのだ。

 19歳の斉藤には驚き以外のなにものでもなかった


 海外旅行には避けて通れないものに出入国審査があるが、ハワイも米国でありハワイ県でもハワイ市でも無い米国ハワイ州である。

 査証免除プログラムで入国する際の必要書類は、有効な日本旅券、所要事項を記入・署名した査証免除者用の出入国カード「I-94W」(搭乗の機内入手できる)及び上記の航空券である。

 空港等での入国審査では、旅券、出入国カード(査証を取得している場合は「I-94」(白いカード)、査証免除プログラムによる場合は「I-94W」(緑色のカード))に所要事項を記入・署名したもの、航空券を提示する。 

 入国審査官は、旅券に入国印を押すとともにI-94(またはI-94W)に入国の条件、期限を記入し、旅券とともに返して来る。I-94(またはI-94W)はアメリカ滞在中に滞在資格を明らかにするもので、また、出国の際に提出する必要があるので、捨てたり破いたりしないで旅券と一緒に大切に保管しておく必要がある。

 I-94に記載された期限を越えて滞在する場合には、管轄の移民帰化局にて所要の手続きを行いう。また、I-94Wについては記載された滞在期限を超えて滞在することは許可されないので、滞在期限の延長や他の滞在資格への変更などはできない(なお、査証の有効期限が残っていてもI-94の期限が切れていれば不法滞在になるのだ)。

 通貨の持ち込みは自由であるが、現金(米ドル貨、その他の通貨を問わず)、トラベラーズ・チェック及びその他の有価証券を合計して1万米ドル以上持ち込む場合には申告が必要。申告をしなかった場合、没収を含む民事・刑事罰が科せられることもある。
 ただし、申告した所持金に税金等は課せられる事はない。また、申告用紙は航空機内等で配られる。なお、出国の際も申告の必要だ。

 果物・野菜・その他の植物、肉類(乾燥肉等の入った力ツプ麺も含まれるし、狂牛病騒ぎ以降はかなり厳しいのである)、生魚、銃器、刀剣、麻薬・覚醒剤、細菌性物質は持ち込むことができない。また、生きている動植物及び動物製品は、検疫上輸入が禁止となっているものがある。

 さらに、注意点として、
・カメラは検査機によるダメージを受けやすいので、預け入れ荷物には入れない。
・飲食物は預け入れ荷物に入れない。
・荷物を詰めすぎない。
・書籍やその他の文書は重ね合わさず、鞄の中に広く並べる。
・小物等は見えやすいプラスティック容器に入れ、靴類は荷物の上部に置き、検査を行いやすくする。

・・・と言うのも覚えておいて損は無い

 アメリカの移民・国籍法上、アメリカに滞在する外国人は外国人登録することが義務付けられている。しかし、非移民(永住権を持たない滞在者)の場合は、入国時に記入する出入国カード(1-94または1-94W)が外国人登録と見なされるのである。
 
 入国時に与えられる滞在期限を越えて滞在したい場合には、滞在地を管轄する移民・帰化局地方事務所または地区サービスセンターで滞在期限を終了する前に申請書(1-589)に必要書類を添えて手数料とともに期間延長の申請をすることができる。

 ただし、査証免除プログラムで入国した場合には滞在期限の延長は認められない。
 
 また、留学及び交換研究者資格の滞在者は、所属先の学校、研究所等の移民法担当者を通
じた手続きをとることになります。就労を伴う資格の場合には、雇用者より、申請書(I-129)に必要書類を添え、手数料とともに期間延長の申請をすることとなる。

 米国に30日以上滞在する外国人(グリーンカード保有者を含む)は、転居した場合、10日以内に新住所をINS(米国移民局)へ報告する義務がある。この義務を怠ると民事・刑事罰が科せられまるので要注意。(米国移民法第266条(b))
 麻薬と言えば、ヘロイン、コケイン、LSD、大麻等の麻薬・覚醒剤の栽培、販売、所持は連邦法、州法で禁止されている。麻薬・覚醒剤が犯罪や青少年の非行に直結することから、その取締りが近年非常に厳しくなっており、マリファナを1本持っていても多額の罰金を科されたり、実刑に処されるのである。

 また、警察のおとり捜査や集中取締りも一段と強化されている。

 他方、都会の片隅や一般の若者の生活圏内においても麻薬等の密売が行われていることがある。好奇心から麻薬等を買い求めたり、その販売・運搬に荷担するようなことは絶対に避け、麻薬犯罪に関わり合いにならないように注意する必要があるのは言うまでもない。

 また、自分でも知らないうちに麻薬の運び屋に仕立て上げられる可能性もあるので、現地で知り合った人等から安易に手荷物等を預からないように注意が必要だ。
 
 なお、ハワイ州では、医療用マリファナ使用の合法化法が施行され、激しい痛みを伴う衰弱性の病気(癌やエイズ等)に冒されている患者は、医師の許可証を得れば、痛み緩和等のために合法的にマリファナを入手し使用することができることになった。

 これに便乗して、一部のマリファナ売人が、「使用は合法となった」と称して、旅行者にマリファナを売りつけているとの情報がある。売人の虚言や甘言に乗せられることのないよう十分な注意が必要である。

 就労が許可される査証(滞在資格)を持たない外国人が、アメリカ国内で職に就くことは、
法律違反となり厳しい取締りの対象となるのでこれも注意が必要だ。
 
 アメリカで就労するには、必ず事前に就労可能な査証を取得する必要がある。留学査証(滞在資格)でアメリカに滞在している者が、卒業後アメリカ国内で就職先を見つけた揚合等でも、
 管轄の労働局で労働許可を得た上でないと滞在資格の変更をすることができないのだ。

 また、アメリカ人では得られない特別な技術、技能を必要とする労働に従事し、かつアメリカ人の雇用を圧迫しない場合に限られる。なお、査証免除プログラムで入国した人は滞在資格の変更を申請できない事も覚えておいて欲しい。

 なお、不法滞在期間が半年以上1年以内の場合は、その後アメリカを出国してから3年間、また、1年以上不法滞在した人はアメリカ出国後10年間、アメリカに再入国することが許可されないし、当局に摘発され、国外強制退去にされる場合もあるのだが、この場合は20年間アメリカに入国することができなくなる。
 
 知っているようで知らない事として、海岸、公園、道路等の公共の場所での飲酒は禁止さ
れており、これらの場所で飲酒中に逮捕されると言うドジな日本人が散見される。
(酒屋も慣れたもので、アルコールの場合は中身のわからない紙袋に入れてくれるが)

 ハワイ州の規則で、18歳未満の未成年は、保護者の同伴がなければ、午後10時~午前4時の間に外出することは出来ない。

 オアフ島の道路は大部分が舗装され、幅員も広く、フリーウェイ網も整備されている。また、運転マナーは比較的良い方だ。主要公共交通機関が路線バスとタクシーであり、車両が交通手段の中心となっているため、交通量は比較的多く、市内ではフリーウェイ、一般道路ともに平日の朝・夕は渋滞する。
 
 多数の人種、民族、国民がそれぞれ異なった宗教的、文化的背景を持って集まり、それぞれの違いを意識しながら生活していると言える。無意識に不用意な発言をしてしまうことがないように留意して、それぞれの風俗、習慣等を尊重することが大切である。また、ハワイアンのへイアウ(聖地あるいは伝統的な儀式を執り行う史跡)に立ち入る際には、不敬な行動は慎んで欲しい。
 
 マリンスポーツは一年中可能だが、水による事故も散見されるので充分な注意が必要である自然災害としては、ハリケーンに注意が必要だ。1982年9月にカウアイ島を直撃したハリケーン「イニキ」では、死者6名、重軽傷者331名の被害が発生した。また、ハワイにおいて予想されるその他の自然災害は、地震、火山の噴火及び津波・高波等である。






 あくる朝二人はミールクーポンでアメリカン朝定食を食べている。

 昨晩、怪しげな、いや完璧に怪しい劇場で凄いのを見て、頭の中は知恵熱と言うのかショック状態で、なんとも言えない状態であった。 それまでの経験では、ビニ本と言われる怪しげだが中身は対した事無い奴とか、海外土産のプレイボーイしか見たことなかった斉藤にとっては超衝撃であった。

 もっとも渡部の方は、渋谷の道頓堀劇場で既に見たことがあるので平然たるものであった。
 一方斉藤はまだまだ健全無知の少年であり、マリファナの事を「パカロロ」と呼ぶ事などまだ知らなかった。

 食後はホテルに隣接するアラモアナショッピングセンターへ行ってみることにした。

 巨大なショッピングアーケードでJ.C.PennyやSearsそれに白木屋などが入っていて広大なアラモアナ公園の北側に面した20万平方メートルの敷地に、二三〇店を超えるショップやレストランなどがこれでもかと言うくらい揃っている。オープンエアのモールでは、世界でもトップクラスの規模を誇る超ビッグなショッピング・センターである。

 日本ばかりでなく世界各地からハワイを訪れる旅行者にも人気のショッピングスポットとして知られ、なんと年間約五千六百万人もの人々が訪れている。一階海側にはフードコートのマカイコート(魔界ではない)と言うのがあり、座席数千五百と言う規模。ハワイ料理、イタリアン、中華、ケイジャン料理、タイ料理、メキシカン、ラーメンなど、20を超えるお店が世界各国の料理を提供している。

 デザートやドリンクもあるので、ショッピング中の休憩場所としても使える。食事時になると、多くの観光客やローカルでごった返しており、人気のお店には行列もできている。

 決して、お勧めはしている訳ではありません・・が…………。

「オカズヤ」と言う弁当や惣菜を売っている店は勘違いかもしれないが美味しかった様な気がする。
 
 ショッピングセンターのバスターミナルの所から「タワーレコード」が見えたので行ってみると、チャックさんの車で聞いた『カラパナ』のセカンドアルバムが売っていたので買った。『Juliette』、サーフミュージックとしては定番の『Black Sand』などが収録されている。
 タワーレコードの角を曲ると韓国文字のレストランが何件かあり、その先にサーフボードの店があるので行って見ることにした。

 「これ日本の四分の一位だな 値段」
 「へぇ~!?そう?」
 「買って帰るなんて無理でしょうに?」と斉藤が言うと、渡部は「いや、大丈夫だろ、添乗員に聞いてみるか!?」

 行動力のある渡部は余り深く考えずに添乗員に聞くと、30分程待ってくれと言う

 梱包・空港までの運送・機内持込手荷物の追加料金が合計で1万円程別途必要だが、それさえ払えばオッケーだと言うのだ。

 結局サーフボードを買ったのであった。



 サーフボードを買った後、ホテルのプールで泳ぐと言うより昼寝をしていると、どこかで見た顔が…

「ほれ、、ハンバーグのお兄さん…」
「んん・・?」
「ミニバーグも一緒だわ」
「んんん?」

 歌手の菅原洋一親子がプールで遊んでいたのであった。このハンバーグと言うニックネームは前田武彦が命名者だと教えてくれたのであった。

 夕方になると、二人はワイキキへ行ってみることにした。今度はバスに乗ることにした。
 1回50セントである。 昼間サーフボードを買った時に乗り場はわかっていた。

 どこで降りたら良いのか検討がつかないので、"インターナショナル・マーケット・プレイス"っと言う、ワイキキの街の真ん中へんにある、出店の集合体みたいな場所の辺りで下車する事にした。うっそうと茂った木の下に、小さなお店がごちゃごちゃとたくさん並んでいて、まるで縁日のようである。

 この木は樹齢百年のバニアンツリーである、ワイキキのランドマークと言える。
 斜め前にはワイキキにある最大のショッピングセンター「ロイヤル・ハワイアン・ショッピングセンター」がある。 
 三つの建物(A、B、C館)のそれぞれ三階までがテナント、その数は120を超える。
ブランド・ブティック、ギフト・ショップ、レストランと一通りはそろっている。

 知る人ぞしる所としては、3階の通路で開かれるPoakalaniハワイアンキルト教室である。毎週火曜、木曜9:30~11:30受講料無料、キット代がかかる。主にキルトが初めてという初心者や初級者が多く参加している。現在は主に娘のCissyが教えている。Cissyは日本語はわからないけど、日本語が話せるJuneや他の日本人ヘルプもだいたいいるので、
日本語で気軽にハワイアンキルト製作を楽しむ事が出来る。

 こういった場所を散策の後、リージェンシーホテルの裏にある、キングスビレッジへと向った。ここでは、毎日夕方六時十五分より正面の広場で行われる衛兵の交代式が有名である。最初に本物のフラダンスが披露され、続けて衛兵交代式が行われる。これは本物の衛兵交代式を元にショーアップされた物であるが、衛兵の銃さばきがものすごくかっこいい。間近に見るとその迫力に圧倒されるはずである。

 ここには、こじんまりとしたレストランや居酒屋がある、居酒屋「侘びサビ亭」と言う店で焼き鳥と冷奴をつまみにサッポロビールを呑んだ。

 焼き鳥は美味しかった。ビールは冷たくて、高かった。

 帰りはプラプラとお土産屋を覗き、Tシャツやマカダミアン・ナッツチョコレート、民芸品風キーホルダー等を購入しつつホテルへと戻る二人であるが、道中には「ポルノ大学 外人娘在庫在!」、「フアッツヨン按摩」など間違いなのか愛嬌なのか訳のわからない看板があった。

 マリファナ!マリファナと!盛んに小声で囁き掛けてくるお兄さんもいる。

 と言っている間にハワイも明日が最終日である
 最終日という事でチャックさんが午前中だけでもと言って案内してくれる事になった。

 普通の観光客があまり行かない所へ行こうと言って「ヨコハマベイ」へ連れて行ってくれると言う。
 すき通った真っ青な海と真っ白なビーチが広がるヨコハマベイは、オアフ島の他のビーチとはまた違う美しいハワイの風景を見せてくれた。
 ここ、ヨコハマベイとその手前のマクアビーチの沖は野生のイルカの群れが見られることでも知られていて、朝十時過ぎ位まではビーチからでもかなりの確率でイルカを見ることができるそうである。ただし、週末でも人影はまばらで、はっきり言って治安が良好という訳ではないので、このあたりのビーチはちょっとだけ眺める程度にして長居は無用だそうである。

 帰り道にあるゴルフ場のドライビングレンジで打ちっ放しを楽しんだ。
 トークンと呼ばれるコインを窓口で買って、それを貸ボール機へ入れると、日本より小ぶりなバケツにボールが出て来るのである。
 ネットも何も無い広い場所で気持ちが良い、斉藤はゴルフは友人の伊達に誘われて二木ゴ
ルフでアイアンセットを買い、親戚から貰ったメーカー不明のウッドセットを持って、船橋ヘルスセンターの跡地に出来たショートコースへ一度行っただけなので、すぐに手の皮は剥けて来るし、とんでもない方向へ飛ぶ、楽しくもなんともなかった。
 
 驚いたのは幼稚園児程の子供が結構まともに打っている事であった。

 チャックさんは仕事に戻らなくてはならないとの事でホテルまで送ってくれた。

 明日は10:30出発の飛行機である。機内預け荷物は朝7時迄に通路へ出して置くとの事である。

・・・・あっと言う間のハワイ旅行である。

 この時間が止まった様な、静か~~と言う音が聞こえそうな生活とおさらばして普段の
生活へ戻ることが出来るのだろうかと、ふと不安になる斉藤であった。


(Part2 終り)
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# by mooksM | 2003-07-02 21:22 | 書き物

ミチオ Part2

ハワイと言うと南国のパラダイスとか良いイメージばかり聞こえてくるが…

 ハワイ州の犯罪白書「クライム・イン・ハワイ」によると、19xx年のハワイ州における犯罪(発生件数65,947件、うち殺人、強姦、強盗及び暴行の件数が3,117件、侵入窃盗、窃盗及び自動車盗の財産犯罪が62,830件)の発生件数は、19XX年の犯罪発生件数より26%減少しており、19XX年に統計を取り始めて以来、4番目の低さとなっているが、ハワイ州の窃盗発生件数は、ここ1年で更に3.6%増加している。
 なお、昨年1年間で空き巣、窃盗、自動軍盗、放火等の被害に違った人は18人に一人の割合である。
 日本人の犯罪被害例としては

・空港到着後、ツアーの集合場所で待っている間や荷物をレンタカーに積み込んでいる際に、手荷物が置き引き被害に遭った。
・観光名所や大型ショッピングセンターの駐車場等で車上狙い被害に遭った
・観光名所、繁華街、大型ショッピングセンター付近において、車両による引ったくりやスリ被害に遭った。
・ホテルの自室に鍵を開けて入ろうとしたところ、後ろから来た犯人に室内に押し込まれ強盗被害に遭った。
・女性がホテルのドアの外からノックするので扉を開けたところ、背後にいた共犯者(複数の男性)が室内に乱入し強盗・強姦の被害に遭った。

 犯罪被害発生危険地域と言うと、比較的犯罪発生の頻度の高い地域は、ホノルル市内のダウンタウン地域やワイキキ地域等であり、これらの地域においては、引ったくりや強盗等の悪質な事件も発生しています。特に夜間の一人歩きは避け、周囲に注意を払う必要がある。

 基礎的な防犯対策として、次のような事項に留意して欲しい。

・空港、ホテル、ビーチ等では、手荷物は必ず手に持つこと。また、荷物を置く場合でも、
身近に置いて目を離さない。
・貴重品を車内(トランク内を含む)に置いたまま車両から離れないようにする。
・レンタカーを借りる際には、できるだけ盗難防止付きの車両を指定し、駐車する際には確実に施錠する。
・ホテルの部屋のテーブル上などに旅券や貴重品を置いたまま外出しない。外出時には鍵のかかる保管庫に入れるか、ホテルのフロントの金庫に預ける。
・観光地や繁華街(ショッピングセンターを含む)では、白昼でも引ったくりが散見されるので、旅券や貴重品は肌身に付けておき、多額の現金は持ち歩かない。また、人目のあるところで財布を開けない。

 日本人の犯罪加害例では、ハワイ州で日本人の旅行者等が犯罪加害者として逮捕される
ケースとして、窃盗(万引き)、家庭内暴力(ホテルでの夫婦喧嘩、子供に対する暴力等)、売春、覚醒剤等所持、出入国関係違反及び飲酒運転等があります。万引きの加害者として逮捕された場合は、警察の留置場に拘留されることとなるが、被害額が800ドルを超えると重罪扱いとなり、多額の保釈金が要求される。また、家庭内暴力で逮捕された場合は、
保釈金が高額となる場合が多く、さらには、裁判で人定確認が終了するまで警察の拘置所から出所できない場合が多いようだ。

 なお、犯罪加害者として逮捕された場合、人定確認のための裁判終了後、事後の裁判日程を指定されのだが、指定された裁判に出頭しなかった場合、法廷侮辱罪として別件の罪状が付加されるのである。

 ハナウマベイで射撃を楽しんだ(?)後、二人はかカイルアビーチ、タートルベイを眺め、ノースショワーでサーフィンを見学し、松本のシェイブアイスを食べて、「ポリネシアン文化センター」を見学しホテルへ戻ってきた。
 今日は渡部の親戚の知り合いでホノルル在住のチャックさんが夜の案内をしてくれることになっている。

 夕方6時に友人のクリハラさんと一緒にシェビーのミニバンでホテルへ迎えに来てくれた。

 「アロ~ハ!ハワイへようこそ!」

 チャックさんの運転するミニバンは、タンタラスの丘へ着いた。

「… … ・・・」

 言葉じゃ表せない綺麗な夜景である。どこかに百万ドルの夜景とか言うところがあると聞いたけど、ここは何ドルなのかしら!?などと思いながら見とれていた。

 タンタラスの丘はホノルル北部にある小高い丘で、まるで宝石をちりばめたような夜景を見ることができるビュー・ポイントとして知られている。コオラウ山脈の一部の山裾が、市の中央部付近にせり出したもので、頂上には「プウ・ウアラカア・パーク」という州立公園がある。この公園には展望台があるが、残念なことに公園は日没時には閉まってしまうので、展望台からは昼間の景色しか楽しむことができない。夜景を楽しむには、山腹の路肩にある駐車場を利用することになる。ここからの夜景は本当に美しく、現地に住む若者たちのデート・スポットにもなっている。
 観光客の場合はタクシーで行く方が良い。住宅地を抜けて北上した後、「ラウンド・トップ・ドライブ(Round Top Dr.)」という道へ入らなければならないのだが、この道への入口がとてもわかりづらい。特に夜ともなると、土地カンのない者には至難の業である。その上、このラウンド・トップ・ドライブはヘアピン・カーブの続く急坂の為、慎重な運転が要求されるので、タクシーを利用した方が無難である。

 4人はKapafuluの「入船」と言うサーファー&ローカルの間ではあまりにも有名で、かれこれ20年以上続いている店で一杯やりながら食事をした。はっきり言って、きれいじゃない。ジャパニーズとハワイアンの結晶?安くて気軽でお茶目な和食はハワイならでは。駐車は路駐可能である。リカーライセンスが無いので、みんなアイスボックスにビールやらを入れて持ち込んで飲んでいる。ガーリックアヒ(にんにく味でソテーしたまぐろ)は必オーダー!思い切りハワイを感じたい人にお薦め。気取っているのが好きな人にはお薦めできないので、悪しからず。

 「さてと、そろそろ本日のメインイベントと行くか!」とチャックさん

 「………」

 チャックさんの運転するミニバンはH1フリウェイを西へ向かっている。

 カーステレオでは、なにやらハワイアン風スローロックの様な涼しげな音楽が流れている。
 「カラパナ」と言うハワイで流行っているサーフミュージックのグループだそうである。
 カラパナという名前はハワイ島にある地名である、1975年(2年前)に起きた火山活動による地震で溶岩に中に埋もれてしまった土地の名前である。

 車はダウンタウンの中華街をゆっくり走っている、怪しげな地帯であることは、雰囲気でわかる。変な匂いと派手な看板、標識以外はすべて漢字、漢字、漢字。

 会話するでも無く2~3人で固まって往来する車を睨んでいるグループがいたりする。
 「ここ道は1本違うが、到着した時に市内観光で通ってるはずだよ」とチャックさん
「ええ!?」
 「あそこを曲がった所に『カメハメハ像』があるしさ。
 「へぇ~!?」
 「あ、そこにあるのは孫文の銅像ネ」
 「へぇ~!?」

 ダウンタウンは昼の顔と夜の顔はまったく異なるのである、しかもたった1本とはいえ道が違えば尚の事である。
 あっと言う間に中華街を通り過ぎ、まともや怪しげな雰囲気の地帯へとやってきた。消火栓からは水がジャブジャブ流れているし、道路のところどころにゴミが無造作に捨てられていてその辺りには巨大なゴキブリがぞろぞろいる。
 酒屋だろうか、檻の中に酒瓶の棚があり店員が注文のあるたび、お金と酒瓶を交換で渡している。タバコも紙コップに入っているのを1本単位で売っている様だ。

 「この辺はぶっそうでね~、この間ちょっと停めていた車のタイヤ4本全部盗まれたって聞いた」
 「へぇ~~!!」
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# by mooksM | 2003-07-02 00:00 | 書き物

ミチオ Part1-2

カフェテリアがあったので入って見た、いなり寿司やおむすびもある、お蕎麦や派手なナルトがのっているラーメン、なにやら変な寿司?がある、・・・スパムス・・・?

 そう、スパムむすびと言う物でハワイでポピュラーな食材スパムポークランチョンミート(SPAM)。スパムはポークを缶詰にしたハムのようなソーセージのような食品で、スパムポークランチョンミートは「スパムメール」の語源としても有名であるが、ハワイ州は全米50州の中でもスパム消費量No.1との事である。

 さらに有名な食事としてはロコモコがある。
ロコモコは日本人のグルメを満足させるクイジーン(料理)ではない。しかし、ハワイの若者、特に学生には理想的な味と値段の簡単な即席料理である。

 第二次世界大戦の1949年に若い二世夫婦リチャード、ナンシー井上は、ヒロのキノオレ通りとポナハワイ通りの角に、小さなレストランを開店した。ポナハワイ通りの向こう側にリンカーン公園があるので、「リンカーングリル」と名づけたそうだ。

 主人のリチャードはヒロ郊外のカイビキに生まれ、妻のナンシーはハワイ島南部のパハラ町に生まれた。リチャードは戦前、コナベーカリー、ヒロのパシフィック・カフェ、ホノルルのロイヤルハワイアンホテルなどで料理の技術を学んできたので、料理には自信を持っていた。
「リンカーン・グリル」のメニューは、主としてハンバーガー、ホットドッグ、パンケーキ、ビーフシチュー、サンドイッチ、スパゲッティーなどの簡易な料理であった。グリルの近くに、ヒロ高校や野球、フットボールをやるリンカーン公園があるので、若者達が毎日寄り集まってきていた。快活な夫婦が、簡単で早く、大量にでき、そのうえ美味しくて安い料理を出したので、グリルは若者たちに非常な人気があり、夫婦は朝六時から夜十一時まで、座って休む時間がないほど忙しかった。
 特にリンカーン公園で青年野球やフットボールの試合があった時は目のまわるほど働いた。
 そのころ、ヒロの勇ましい日本人二世高校生やOBの青年たちは、アマチュアの2チーム、「リンカーン・レッカー」(難船略奪者)と「ワイケアパイレーツ」(海賊軍)を編成し、毎週末、リンカーン公園のグランドで猛烈なアメリカン・フットボールの闘争をしていた。彼らの間には激しい敵愾心があり、敗北の屈辱にたえられず、試合中にタックルが激しいと、しばしば血まみれになって殴りあいをすることが多く、審判を手こずらしていた。
 
汗まみれになって試合をしたあと、リンカーン・レッカーの若者は必ず「リンカーン・グリル」に行き、清涼飲料水、ビール、ハンバーガーを食べ、気勢をあげて話し合うのが常であった。同じく、ワイケア・パイレーツの若者は、リチャード宮城の経営するカメハメハ通りの「カフェ100」に集まって、飲食しながらその日の闘争を話し合った。カフェ100は、宮城が、第二次世界大戦でイタリア・フランス戦争で活躍したハワイ二世からなる100部隊に属していたから、そのように名づけたのであった。

 1951年のある日の授業後、数人のヒロ高校生の常連がリンカーン・グリルに入ってきた。そのうちの一人が、「ナンシー、今日、俺は財布に35セントしかないんだ。腹がペコペコだから、なんでもいいから35セントで出来るものを食べさせてくれ」と頼んだ。
 親切なナンシーは、かわいそうに思い、サイミンボール(ラーメン丼)にたっぷり熱いご飯を入れ、その上にハンバーグと目玉焼きを置き、リチャードが大量に作っていた牛肉のブラウングレービー(たれ)をかけて、若者たちに出した。

 今まで見たこともない料理なので、彼らは目を見張って驚きながら食べはじめた。腹が減っていたせいもあろうが、その簡易な料理は若者たちを非常に満足させた。

 「これはうまい」
 「これはすごい」

 と米一粒も残さず食べて、ナンシーに感謝して帰っていった。

 その頃高校生は、活気にあふれ、ひそかにタバコを吸っていたが、今のように麻薬を吸ったり、強盗したり、闘争して拳銃で殺しあうような不法者はなく、高校卒業後にはりっぱな人情の厚い社会人になった。

 それから、数日後、同じグループがグリルに入ってきて、「ナンシー、この間、あなたが作ってくれたハンバーグ・タマゴ・ライス料理を、われわれは『ロコ・モコ』と名づけたよ」と宣言した。

 ナンシーは誰が初めてそのように命名したのか記憶がない。

だれかが、「クレージー」という二世のヒロ高校生の渾名から来たと言ったが、当人はそれを否定している。「ロコ」では名前が短すぎるので、語呂のリズムをもつために、「ロコ・ソコ」「ロコ・ドコ」「ロコ・ココ」等が槍玉にあがったが、結局ロコ・モコが呼びやすく、また音楽的に軽快なリズムであることから、高校生たちはそのように決定した。

 リチャードは、ロコ・モコという名は、「ロコモーティブ」(機関車)という単語のような活気のある若者を象徴しているから、みなから受けたのだと言っている。ハワイの若者たちは、ピジン(混成語)で「ローカル」(土地の人)を短く「ロコ」と言うから、地方色のある愛称とも言える。

 ロコ・モコが命名されて以来、「リンカーン・グリル」のメニューにロコ・モコが入り、若者たちから一番人気のある食べ物になった。ハンバーガー、卵、ライスには味がないから、
永年シェフとして料理の経験があったリチャードのすばらしいグレービーがこの人気を獲得したことは間違いない。
 
 ヒロのような小さい町では、ニュースは早く広がるものである。リンカーン・レッカーの若者が「ロコ・モコ、ロコ・モコ」となじみの「リンカーングリル」の自慢をするので、ワイケア・パイレーツの若者たちは、カフェ100に行ってロコ・モコを注文した。主人の宮城は、若者たちからその内容を聞き、ロコ・モコを作りはじめてメニューに加え、それ以来約40年間、毎日、ヒロで最も多くのロコ・モコを売ってきた。

 1981年、リチャード宮城が不幸にも他界したが、未亡人のエィブリンが孝行娘ケイとゲルとともに一生懸命働き、カフェ100はますます繁盛している。現在、クラッシックのロコ・モコの値段は2ドル50セントである。

ロコ・モコが「リンカーングリル」で始められてからしばらくすると、ヒロの至る所のレストランやスナック・バーでロコ・モコが売られ、また、学校のカフェテリアのメニューにもなった。そしてまもなく、ロコ・モコは他の島にも移入され、ホノルルのたいていのレストランのメニューに入り、米本土ではロコ・モコがコロラド州でも食べられるようになったそうである。

 1983年、ハワイ大学のジェームス・ケリー教授が、人類学の雑誌に「ロコ・モコ」という論文を発表したので、ロコ・モコは民俗学的に重要な意義のあることが学会でも認識された訳である。その後、ロコ・モコの名声は食べ物の分野以外にも広がり、ロコ・モコのTシャツがハワイの店頭に売られ、「ロコ・モコ」バンドというロック音楽のバンドも現れて、彼らの吹き込んだCDが売られている。

 1964年、井上夫妻は「リンカーングリル」を売って、ハワイ島南コハラのプアコに移り、数年マウナケア・ビーチ・ホテルで働いたが、今は引退してプアコ浜辺の我が家で有閑な生活を送っている。井上夫妻は、ケンタッキー・フライドチキンのようにロコ・モコの特許を申請し、チェーン・ストアーを出すようなことはしなかった。

 しかし、1984年「カフェ100」はロコ・モコの特許を申請してロコ・モコの「誕生地」と宣伝した。その許可を受けたことを知ったヒロ高校卒業生や元のリンカーン・レッカーが、ロコ・モコは「リンカーン・グリル」の井上夫妻により初めて作られたものだと、新聞の読者欄に抗議したことがあった。

 1987年に井上夫妻がラスベガス、カリフォルニアを旅行して簡易食堂に行ってメニューを見ると、懐かしいロコ・モコが記載されていて、我が子の名前を見たようにうれしかったという。現在、夫婦は特許権をもたないが、自分たちの創作したロコ・モコという一つの料理が若い大衆に受け入れられたことに、表現できない満足感を覚える。ハワイに住む者、またハワイを訪れる者に、是非一度はこのロコ・モコをカフェテリアか簡易食堂で食べることを勧める。

(Part1終わり)
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# by mooksM | 2003-07-01 00:01 | 書き物

ミチオ Part1

斉藤道夫は今、羽田の東京国際空港整備場でバイト入社の手続きをしている。

これから8月末日迄の約2ヶ月間羽田空港でアルバイトをするのである。ここでのアルバイトは今回初めてなので不安で一杯だが、飛行機は好きだし、空港内の普通の人が入れない色々な所へ入る事が出来ると聞いているので興味津々でもある。

 人事担当者の説明もいよいよ終盤となり、ツナギ(作業服)3着と安全靴、黄色のヘルメット、洗濯券が配布され。ランプパスが渡された。 
作業服の洗濯は空港内の専門クリーニング業者が担当するのだが、この際この洗濯券が必要となる。1ヶ月当り5枚の支給である。
 
ランプパスとは空港内立入り許可証の事でCAB(Civil Aviation Bureau Ministry of
Transportの略で国土交通省航空局のこと。)が発行する、臨時従業員は黄色、通常従業員はピンク色で許可地域は人それぞれ違うのである。
 
 このランプパスがあれば滑走路や格納庫以外のたいていの所へ入って行けるのだ。
 空港内には官庁の食堂とか格安の食堂もあるのだが、ここも入場可能である。
 
 整備場から空港までマイクロバスで連れて行かれ、更衣室へ案内されロッカーの鍵が渡され、着替えをして来る様に指示があった。安全靴はつま先の部分に鉄が入っていて重たいし、チャップリンの靴の様であまり格好良い物ではない。
 着替えた後、それぞれ配属先へと分かれた。
 
 今回のバイト先は国際空港サービス(IAS)と言う会社で、全日航の仕事の現場部分を請け負っている会社である。
空港のカウンター業務や手荷物の運搬・積載、航空貨物の扱い、機内外清掃、離着陸時の機体誘導、その他諸々を行う会社である。航空会社それぞれがこういった子会社を持っているのある。
 
 配属されたのは手荷物課の仕分係であった。手荷物課の業務には、カウンター・仕分け・
長尺物・ローダーの4種類がある。
 
カウンターでの機内預かり荷物の取扱い
預かり・荷物タグの作成(当時は便名と通し
番号をスタンプで押していた)・荷物タグをつける・ベルトコンベアで流す)と言った作業を担当する。

 仕分けは、預かった後コンベアで流れてきた荷物を飛行機の便毎にトラックやコンテナへ個数を数えながら積み込み、カウンターでのチェックイン終了後カウンターで預かったと言う個数と等しいことを確認するところまでが作業範囲である。

長尺物とは、カウンターで預かった荷物の内、貴重品であるとか、壊れ物もしくは長いのでベルトコンベアで流すことが出来ない物をカウンターから仕分け迄運ぶのが守備範囲であり、この仕事の存在をこの後何回目かのバイトで味わって感嘆したものである、 

お金を貰うのが申し訳ないほど楽で、しかも芸能人の化粧バックとかギターとかそういった物を運ぶだけが仕事なのである。たま~~に競輪選手の自転車や楽団の楽器と言う重くて大変な荷物を扱う事もあるのだが。1日に5~6人の芸能人を見ることは珍しくもなんともなかったものである。

ローダーとは、仕分け後の作業を担うのである、荷物をコンテナやトラックで飛行機まで運び、積載あるいは到着便の飛行機からの荷降ろし、そして到着ロビーのベルトコンベアへ個数を数えながら流すのが仕事である。一日に何度も引越しをする様なもので一番大変なのだが、面白く一番の人気の職種である。

道夫の勤務は「早番」という事で朝七時から午後三時までが勤務時間である。配属先の金子係長から業務説明の説明が終り、さっそく作業開始。

ベルトコンベアからぽつりぽつりと旅行バック等の手荷物が流れてくる。タグのフライト№を見てそれをトラック又はコンテナへ数を数えながら積み込む。

 「んん・・? 15便  え~~っと? あ!札幌行きだ」「違うワ大阪行きじゃん」
「今度は51便か…・ 札幌行きだ…あれ トラックがないじゃん」
「あのぉ~~積み込むトラックが無いんですけどぉ…」
「何を言ってるのかなぁ あそこのコンテナだよ! コンテナ!」
「あっ すんません」

こんな感じだから、荷物はベルトコンベアにどんどん溜まって行くのであった。

あれ こんどはタグが2枚付いてるのが流れてきたぞ??ん・・?Door Side??」なんて言ってる間にだんだんと慣れてきて、ベルトコンベアからトラック迄1~2メートル歩くのを面倒となり、投げる様になっている。
(これってみんなやっている事、でもやっちゃいけない事)

 社員の勤務体系は変則勤務で、早番→日勤→日勤→泊まり→明け→休みとなっている。早番は7時~3時、日勤は9時~5時、泊まりは4時~12時、明けは6時~9時、日勤は中番と言われ10:30~18:30へ適宜組替られ1ヶ月間単位の勤務表が前月に配られるのである。
 飛行機の離発着の多い10時~15時頃に多くの人間がいる様に組まれているのであった、
 だから入れ替わり出勤してくる人退社する人が居て、ここは何人居るのかしらと疑問に思っていたのであった。

 こういった一風変わった職場であるため(?)社員もアルバイトもユニークな人間がたくさんいた。

 自衛隊上がりの松田さんは仕分場でなぜか鳩を飼っているし、芸能プロダクションマネージャ~経験者の小笠原さん、プロレスラー上がりの上田さん、暴走族のアタマの佐藤さん(会社に勤めながらも暴走族継続中)、指を詰めてやくざから逃げてきたと言う赤木さん等々ユニークな人々がたくさんいるのであった。

バイトも18歳位~55歳位までの広い年齢で、パイロットシャツを着てパイロットの持つようなスーツケースを持って通勤する、飛行機おタクの江頭君。バイトを2ヶ月しては海外へ遊びに行ってくると言う岡田さん、先日もナホトカ航路~シベリア鉄道を利用して2ヶ月の旅を終えて帰ってきたところである。 英語とロシア語とスペイン語が話せるらしい。ハワイではホテルに泊まらず野宿で2週間滞在した実績もある。

 この岡田さんは実践で磨かれた語学力を生かして英語の先生になった後、東京オリエンタルランドのオープンの時転職して、イベントを担当しているのである。

 その岡田さんに感化されて昼飯アンパン1個で我慢してバイト代を貯めて東南アジアを中心に旅行を楽しむ湘南のサーファー武繁君、つい先日はタイへ行き、蝶々を採集してあちこち回っている人と知り合いコカインを貰ったと豪語していた。

 さらに岡田さんと二人でシンガポールへ行き、シンガポール人に成りすまし、日本人女性観光客とたくさん遊んだらしい。彼はその後、台湾旅行の最中、台北から台中へ向かう列車の中で隣あわせとなった女性に恋をして、斉藤がたまたま第二外国語で中国語を選択しているのをこれ幸いに、中国語のラブレターを書かせて、遠距離恋愛を楽しんだ後、双方の両親から反対に合い、二人でシンガポールへ駆け落ち結婚をし、レストランの雇われ店長を経験した後、両親の許しを得、日本へ戻りバティック(更紗)の輸入販売をやっていたが、現在は修行の後、石臼挽きの手打蕎麦店を開業し、その店はテレビや週刊誌で紹介される程の店となっている。
 
 ニューヨークへ留学する為にバイトをしている川崎の田中君などは、その後ニューヨークのクイーンズにあるクイーンズカレッジへ留学を果たし、後日、斉藤もそのアパートへ転がり込んだのであった。こういったユニークな人々満載の職場であった。

 楽だと思っていたがバイトだが一日の荷物の運搬量といったら大変なもので、1週間ほど続いた筋肉痛の後、見る見る筋肉質になっていくのには驚いた。
 
 朝5時に起床して原付のバイクで空港まで20分、着替えてコーヒーを飲み仕事開始、3時に仕事を終え職場の風呂に入り4時に帰宅たま~にバイト仲間の武繁らと蒲田の居酒屋「鶴亀」で呑むと言うのがこの頃の生活パターンであった。
 斉藤は神経質で人見知りをする方である。家族の使った食器でも嫌だし、汚いとかバッチィ事にはかなり敏感である。
 
また、自分から話しかけることが出来ないタイプの人間である、所謂神経質で融通の利かないカタブツって奴であるが、老け顔の斉藤は実際の年齢より上へ見られていて、結構話しかけられたのでこの点は楽であった。

この職場95%が男、しかもバリバリの肉体労働でそれだけでも不潔なわけである。
冷水器の水なんぞ、あっと言う間になくなるのだが、なんとその水の給水にその辺にあるバケツを平気で使うのを見てしまった。

しかもカルピスを入れてかき回すのに、耳に差していた鉛筆でかき回し、それを「ほらカルピス飲みな~」と差し出され……飲むってな事を繰り返す内にこの神経質な部分はかなりそぎ落とされた様である。
 
カルピスはローダー担当が荷物の積み下ろしの時スッチーに貰ってくるのである。

YS11の荷物積載場所はアフター、フォワード、ベリーの3箇所あり、アフターは機体最後尾、フォワードは操縦室の裏となっており、スッチーと遭遇するのである。
 親切なスッチーは「ご苦労様」と言ってオシボリを出してくれたり、飲み物をそっと出してくれたり、時には袋ごとカルピス原液をくれたりすることもあった。スッチーのパンチラなんてのにも遭遇したりするのである。

 ベリーは機体の下部中央の高さ50センチ×2メートル程度の空間であり荷物の積み込みはかなり神経と積み木を積む様なセンスを使うのである。積み込み前にアフターに何個、ベリーに何個とか機体のバランスを考慮(?)して指示があるのである。積み切れなかったでは済まないのである。

 ボーイング737Bー3(ビースリー)と呼ばれ、YSー11で言うところのベリーに積み込むのだが、この扉がジュラルミンとは言え、高さ2メートル幅2メートルあり、これを手で押し上げる形で開けるのだが、最初の頃は力もないし、コツもわからず開けられないのである。強風の時などたまったものではない

 トライスターL10―11(例のロッキード問題で有名になった飛行機)やボーイング747(ジャンボ)などは例外を除きコンテナなので積み込みは楽である、ドアの開け閉めもボタンを押すだけである、

 一方荷降しは数が多いので気が遠くなる。

 ある日、バイトを終えて家へ帰ると、友達の渡部から電話があり

 「9月なんだけどさ ハワイ行きのツアーが安いんだけど行かない?」
 「え? ハワイ」
 「うん ハワイ」
 「いくらよ?」
 「12万4千800円」
 「え・・?!安いじゃん」
 
 なにやら、近所に住む知り合いのオールナイトラジオのプロデューサーが番組で募集している格安ツアーに2名なら潜り込ませてあげると言うことでの特別価格であった。

 たまたま、バイト先で海外へ行っている人間が多く、ちょうど海外に興味が出てきた絶妙のタイミングでもあり、バイトの金の使い道も決めていなかったので快諾したのであった。


 道夫 19歳になったばかり、大学1年生の夏であった。


今年出来た成田空港のロビーに斉藤と渡部の二人は居る。オールナイトラジオ主催のツアー、パンナム航空でワイキキへと行くためである。

二人とも初めての海外旅行である。パスポートと言う物も取ったし、ビザも取った。ドルへの両替も必要と聞き、銀行で両替した1ドル224円である。

「360円じゃないんだ? ドルって」
「海パンとか必要な物は現地で買えば良いよな!?」
「そ~だな うん」

 機内食の時間となった。スチュワーデスが「チキン オア ビーフ?」 (鳥肉にしますか それか 牛肉?)と聞いて回っている。飲み物も聞いてくるビールと言うと1ドルだと言う。へ~安いじゃんと2本飲んだら 真っ赤かになった二人であった。

 ホノルル空港へは日本を出た日付とおなじ日の早朝に到着した。これも不思議でしょうがなかった。日付が戻るって80日間世界一周のあの原理なのかなと、ぼーっとした頭で思っているうちに市内観光だと言う。
 
 ぼ~っとした頭でバスに乗せられて、パンチボールの丘とかヌアヌパリで記念写真を撮り、真珠湾、「この木なんの木」とかへ連れ回された後、郊外の何屋と言うのかアロハシャツや民芸品、海水浴用品がおいてある店へ連れて行かれたのだが、この店員がここがハワイで1番安い店ヨとか怪しい日本語で言うのを真に受けて、海パンとビーチサンダルをここで購入した二人であった。

 ホテルはアラモアナホテルだと言う、着いてみるとワイキキの端っこなので「なんだよ、やっぱり安いだけあるわ」と思った。

 ウエルカムランチとか言う軽食を食べたので、早速着替えてワイキキ海岸へ行ってみた

「ほぉ~~テレビで見る景色と同じだ」
「あれ?? この景色 遠くに見えているのが ワイキキじゃんか!?」
「あれがダイヤモンドヘッドって奴だしな~」
「ここは ワイキキを見ているって事は ワイキキじゃないじゃん」
 
 そうです、ここはアラモアナなのです。そんな事も知らない二人でした。


 「あっ! あれ コンペイじゃない ほら あそこ!」
 「あ・・ほんとだ 林家こん平だ!」
 「このホテル芸能人も泊まるのなら、それほどひどいホテルじゃないんじゃない」
 「そうかもね」
 「ワイキキ行ってみようか?」
 「うん、行ってみよう」
  
 「この通りをずっと歩けば着くだろう」
 「そぉ~だね」

 全然、近くなかった、しかもバスで行くと言う事すら考えの中にない二人であった。

 「ん? 横浜オカダ屋 ?横浜にオカダ屋なんてあったっけ? 嘘くさい店だな」
 「だよな、覗いて見よう」
 「おっ!レイバンのサングラス 良い感じ!」
 「いらっさいませ  そのグラス安いヨ」
 「いくら?」
 「40ドルでいいよ」
  
 結局このサングラス買ってしまったのであった。

 この横浜のお店、実在していたと知ったのは、ず~っと後の事であった。

 ワイキキ迄の道のりは買ったばかりのビーチサンダルで歩くには、かなりの距離であったが、もの珍しいので余り気にならなかった。しかしホテルの数には驚きを隠せなかった。
 
 「ん・・あのガタイのすごいの あれじゃん、ほらプロレスラーの藤浪!?」
 「うんうん、そうだよ、へ~~、さすがハワイだな!」
 
 「しかしサーフボードってこんなに長いと思わなかったな」
 「うん? あれ レンタルだよな」

 と、近づくと そこにいたオッサンが

 「ワタシ ワタベ言います、サーフボード借りますか?」
 「へ~同姓ジャン」と渡部
 「アナタモ ワタベサン デスカ? 1ジカン10ドルでイイヨ」
 「じゃ借ります」

 二人でサーフボードを借りて、サーフィンに初挑戦する二人であった。
 遠浅かと思ったら、結構急に深くなるし、波が立っているのもかなり沖である。そこまでたどり着くと、ボードにまたがり波を待っているサーファーがぽつりぽつりと居る。

 要領を見ていると、波が来たときに手で水を掻き波に乗って立ち上る様だが、うまく行かずに途中で倒れる人もかなり居る。

 しばし、見学後、挑戦する事にした、波が来たので手で思いっきりかく、勢いが着く、波に乗っている状態だ、ふむふむっ、よし今度は立って見ようと思い、再び沖へと戻り再挑戦すると、簡単に立てたのである。何でだろうと周りの人のサーフボードを見るとコンパクトで薄いのである。 

二人の借りたレンタルボードは初心者でも、しかも波に乗らなくても安定しているので止まっていても立って乗れる程の物であったのだ。

 夜になった。ミールクーポンという券で一日2食分は指定した店で食べられるのだ。

ワイキキ方面へ少し歩いた所に「紅花」と言う鉄板焼の店があったので、そこで食事をする事にした。席へ案内されるとカナダ人のグループと二人は同じテーブルであった。ロブスターとステーキのコンビネーションセットと言うのを選んだ。

 割り箸の袋に箸の持ち方が印刷されていて、それを一生懸命真似てみたが、上手く使えずカナダ人に笑われた斉藤であった。

 調理人がやってきた、日本人である。英語と日本語で挨拶をし、肉の焼き方を問うやいなや、いきなり魔術師の様に包丁とフォーク?を操って調理を始めた。焼きあがった肉や野菜は宙を舞い皿へと乗る。これにはびっくりした。味も美味しかった。
 
 食べていると、カメラマンの様な人が来て、写真を撮ると言う、
「ハイっポーズ!」
「綺麗に撮れました!」

 食後のデザートの時にその写真を売りに来るとは知らなかったし、買ってしまった二人であった。

「紅花」を出ると真っ黒なリンカーンコンチネンタルが近づいて来た



「ドコイキマスカ?」


「ホテル カエル マスカ?」
「………」
 
 リンカーンはタクシーだったのだ。

「ワタシ、チャーリーデス ホテルドコ?」
「ん…・アラモアナホテルだけど・・」

 興味本位もありタクシーに乗る二人であった。乗るとホテルとは反対へどんどん向かうので、やはりぼったくるつもりかいなと思い、むかついていると………

「キレイナ オジョッサンイル トコ イキマスカ?」

「ん?」と渡部、怒り爆発寸前で無視する斉藤、渡部は完全に乗り気である。

「おい、どうする行く?」と渡部が言う
「いや、行かないよ」と斉藤
「俺、一人で行くよ」
「いいよ、どうぞどうぞ、いってらっしゃい」

 ホテルのロビーの前で斉藤は一人下車をし、渡部を乗せたタクシーは去っていった。

 タクシーはわざと遠回りをしている訳ではなく、カラカウア通りがダイヤモンドヘッド方向への一方通行であるため、クヒオ通りへと迂回してホテルへ戻ってきたのであった。

 一人ホテルの部屋へ戻り、シャワーを浴びてビールを飲み始めると、ドアチャイムの音、
ドアを開けると苦笑いの渡部の姿が...

「んっ!? やはり、だまされたのか?」
「あっ、いや…」

「え・?もう終わったの?」、
「えっ? うん(笑)、あっという間だった、待ち時間の方が長い位だった」

「………・・・」

「あのタクシーの運ちゃんさ、おもしろいし、良い人みたいだよ」
「へぇ~」
「明日、1日貸切で観光コースを回って食事代以外すべて込みで70ドルだって言うから頼んできた」
「え゛!? 、大丈夫かよ」
「平気、平気」

 やや不安な気持ちでハワイ1日目が終わり、深い眠りについた

 翌朝9時にチャーリーは約束通り、リンカーンコンチネンタルでホテルのロビー前に現れた
「リョーキン70ドル クダサイ」、渡すと
「アリガト」と言い車はダイヤモンドヘッド方面へと向かい、さらにアラワイ運河沿いに向かってH1フリーウェイへと進んだ。

 アイナハイナを左に見て、ココマリーナ~ハワイカイを過ぎて坂道を登って行くと右下へ紺碧の湾が見えてきた。
 「ココ ハナウマベイ キレイ サカナ タクサン イマス」
 「へぇ~」

駐車場で車を止めると

「2ジカン シタラ ムカエニ クルネ ココ」
 「えっ・?!」

 チャーリーは二人を残しさっさと行ってしまった。
 渡部は平然としているが、心配性の斉藤は不安で一杯である。
「さ、海へ入ってみようぜ」
「あ・・うん」

 遠浅の岩場で膝位の深さまで進むと色とりどりの熱帯魚が沢山泳いでいる。水族館の水槽を上から見ている様である。胸くらいの深さまで進むと、お腹をツンツンとつっついてくる魚もいた。魚を見たり甲羅干しをしている間に2時間はすぐ過ぎた。
 チリドッグーを頬張りながら駐車場へ戻るとチャーリーは待っていた。

「キレィダッタデショ」
「うんうん」
 車は海を右手に見て北上している。赤信号で止まったときであった、チャーリーがグローブボックスを開けてなにやら取り出した。


「コレツカッテミル?」

「んん?!」

 

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# by mooksM | 2003-07-01 00:00 | 書き物